今日の購入

  • 六塚光「タマラセ ボンクラたちのララバイ」
    • イラスト、特に口絵部分は秀逸。 勝手に口三味線する九里浜の性質の悪い事悪い事。
    • 題名では「コルシカ忍者VS疎開ライダー」は至高。 疎開ライダーって。
  • 小林めぐみ食卓にビールを 5」
    • 気を抜くと本屋から速攻で姿を消すので参る。
    • 「小説という妄想」はいい言葉。
  • ろくごまるに封仙娘娘追宝録・奮闘編6 最後の宝具」
    • なんだろう、この幸せは。 気のせいだとは分かっていても浸りたい…。
    • 「龍華陶芸に凝り、またしても護玄心労す」はタイトルだけでおなか一杯。
  • 良く考えたら短編集ばっかり。
  • 電撃PSvol'342
    • 新しいのと切り替えの最中だったのをあやうくで買う。
    • 電撃四コマのために。
  • 良く考えたら川崎康宏さんの「ガジェット・ポップ」買って無い…。
    • どうも、あの表紙イラストを見ると、「なんだっ?! このげっそりする感覚はっ?!」に襲われるので無意識に手に取らないようだ。
      • ライトノベルの表紙には女の子を出さなければならないと法律で決まってでもいるのか」*1
      • 良く考えなくてもひどい事言ってるな。 すんません。

 鎌池和馬という作家についての一仮説「シーンテーラー」

鎌池和馬の作家としての能力は「シーン作り」の分野において最大限に発揮されている。
鎌池和馬の代名詞(というかまだこれしかない)「とある魔術の禁書目録」(以後と魔)はどの巻も一貫して同じテーマで書かれている。 それは「立ち向かう」である。 いっそいさぎよいまでにこれだけしか書いていない。*1
それでもマンネリを感じさせないのは、その立ち向かう「シーン」が素晴らしいという点に集約される。 そのシーンでも盛り上がり、大一番の緊張感の張り方が上手いのである。 例を挙げるなら四巻ラストの付近だろう。
どうしようもないような窮地に対して、それでも何が何でも「立ち向かう」神裂、上条、土御門の三者三様の立ち向かい方を書いたラスト周辺は「シーン」としては最大の見所であろう。 しかし、四巻では鎌池和馬の弱点も露呈する事になる。
それは、「シーンを魅せる為には、ストーリーの流れを犠牲にする」という部分である。 ストーリー全体のバランスが悪いのだ。 大ネタの中身と外見の入れ替えがあんまりいかされていなかったり、ミーシャがガムを食うシーンはインサートしなくてもいいよねだったりするが、それは後半に特に顕著になる。 
四巻ではまず神裂が脅威と相対して、それから上条が・・・という展開をたどるのであるが、問題は上条&土御門のシーンが長すぎるのである。 作者的にはどう時間軸のつもりなのであろうが、ページ数からして明らかに後者の方が長く、気が付くと「・・・こいつらこんなにちんたらしてていいのか」と思ってしまうのだ。(エピローグでちょっとだけしか言及されてないし)
他にも挙げるなら枚挙に暇が無いが、特にキャラの扱いが総じて「この人、必要だったのか?」という風なのもある。
一巻での美坂や神裂の扱い、二巻での“吸血殺し”姫神秋沙の扱いなどなど。 (特に姫神秋沙の扱いは唖然とするものがあり、私はしきりに「この人なんだったんだろう」と思ったものである。)
これらに共通するのはやはり「シーンとしては有りだけど、ストーリー上の必然性が極めて薄い」という事で、「シーン」の美しさが必ずしも「ストーリー」の美しさとはならない事を証明している。
「神は細部に宿る」とはよく言われる言葉であるが、その「細部」も「ストーリーとある程度結びついていないと宿らない」という事をかまち和馬は証明していると、私は感じる。
・・・この辺がもうちょっと良くならないかとは思うのだけれど、ここを良くしたら逆に面白くなくなりそうなんだよなぁ。 まあ。「これ以上は望めない」と五巻で読むのを止めたもののたわむれの言ですが。

*1:インデックスの、「今度はどこの薄幸美少女を助けに行くのかな!?」(大意)がある意味この作品の大きい側面を言い表している

 必読書思想

必読書ってなんだろう? 必読とは?
辞書を引くと、

ひつどく[必読] かならず読むこと。 必ず読まなければならないこと。

とある。 読んで字の如くである。 
もうちょっと細かくいくと、「必ず」とは、

かならず[必ず] 間違いなく。 確実に。 きっと。

とある。
つまり、「必読書」とは「本の中で確実の読んでいないといけないもの」という事になる。
ここを少し考えてみたい。
さてさて、まず始めに確認しておかなくてはならないのは、必読書が「必読」になる為には二つの前提があるという事だ。
すなわち、

  1. 誰かに読まれている事。
  2. その誰かに「必」と判断されている事。

この二点である。 これは、当然といえば当然。 読まれていない本が「必読」となるわけがない。 そして、「必」だと思われなければ残っていないのだから。 だが。
だが、これは重要な部分であり、ここから、さらに一つの事が導き出される。
つまり、今現在「必読」となっている本は、「昔、誰かが読むべきだと決めた本」ものという事だ。
さて。
まず疑問に思うのが、なぜ「読むべき」という必要性の指標が生まれたのか、である。
考えるに、これは「これを読んでいると、お互いで話が通じる」という、共通の話題としての機能を本に求めているからではないかと思う。 同じ本を読んでいれば、それを基点に会話し、相互理解(または不理解)できるわけだ。 本読み同士なら、本の話は一番話題しやすいものでもあるので、「読むべき」を読んでいる時の連帯感は大きいだろう。
次に、「誰」が「読むべき」とするか、である。
最近の本なら、これは新聞、雑誌、テレビにインターネットなどで、いろんな人が「これは読むべきだ」として書評を展開している。 そういった人達が選んだ本を我々がさらに読み、「読むべき」と決めるのではないかと考えられる。 「読むべき」とはまず書評(評価)がありきではないか。
昔から残っているものも同様、こういった書評によって「読むべき」、そして「残すべき」とされて、読まれてきた物である事は想像にかたくないし、事実そうなのだろう。
さて、ここで「なぜ人は書評をするのか?」という疑問がでてくる。
この場合、その書評家達はその人たちなりの「読むべき価値」を本に付与しているのだが、ここで同時に「己の価値」も本に付与される。 「これを選んだあの人はえらい」、そして「あの人が読んでいる本は良い」という二つの価値が入り混じっているのである。
つまり、「書評」する事は「本の価値」と「己の価値」を同時に創出する行為だといえる。
結局の所、「誰か」が「読むべき」と決める時、その判断は極めて「その誰かより」なわけだ。
上二つを総合すると、必読とは、
「誰かが話を通じやすくする為に、恣意的に『読むべき』と選んだ本」
という考えに行き着く。 つまる所「必読」をたどるというのは、他人の価値観に沿っていくのと等しい。
そうなると、我々は「必読」に対してどうするのが良いのだろう。
実際問題として、本は多い。 ライトノベルに限定したとしても、とても多い。 その上、今日も着々とその量を増やしている。
となると当然、「必読」の量も増えていく一方だという事である。 このままだと必読というナの未読*1本に、買ってもいないのに埋もれてしまって身動きが出来なくなってしまう。 いいのか、それで。
いいとする案も当然あるだろう。 しかし、おのずから本を読むのなら、「必読」を念頭に入れつつ、己の方法を考えてみるのも手ではあると思う。
流行を追いかけるのか。
特定の評者についていくのか。
それとも、自分が評者となるのか。
まあ、いろいろだろう。
私の方法としては、まずあんまり読む速度が速くないので、流れに乗るのが苦手である。 次に他の人を参考にするというのも、その人が読んでいない本が読みたくなるので断念。
となると、最後に挙げた「自分が評者」の方法をするのが妥当であると考えている。
ただ、できるだけ、「これ読んでいる俺えらい」ではなく、「うわこの本面白いんだけどどうしよう」という形で楽しんでみる形を取る事にした。 その方が面白いからだ。
さておき。
「必読書」に対して、自分はどうするのか。 それをどこまで読むのか、あるいは読まないのか。 昔よりも本が増えている分だけよけいに、しかしきちんと、本読む人は考えておく必要があると思う。
……。 ライトノベル関係ないな…。 「俺の(私の)必読ライトノベル」って誰かしないかなぁ。「他力本願」

*1:ちょっと「〜という〜」を言ってみたかった

今日の元ネタ 坂入慎一「F」二巻p353より。

  • 四十物屋ユルリの台詞より。
    • 一見普通の発言ですが、この後につづく言葉があっさりと人の心を折ります。
    • よくこんなキャラ書けるなと思います。 読んでてここまで本当に「危うい」と感じたのは久しぶり。
      • 言われた相手に対して気の毒だと思ったのも久しぶり。