ぐんぐるぐるぐるぐん

また、思考があっちらこっちらに飛び散ってぐらぐるんぐわらがきーん。 ちょっと壊れ気味になってマスネ! そうですね。
えーと。
自分確認メモー!
オタクにとって「教養がある」って何を意味するんでしょうか?
というわけで、自分がその辺をどれ位理解しているかの確認メモ。考えれば考えるほど情報が足りないよ。
さておき。
まずは、言葉の意味と意義と使われ方から、自分用に確認したいと思います。
「教養がある」というのは大別して、

  1. 、知識がある
  2. 、人格者である

という二つの意味があり、元は二つ合わせたものだそうな。
“人格者"ってのがちょっとわかりづらいんですが、これは単に古典の学習による道徳教育ってわけではなくて、古典を知る事=一定の実務教育だった頃の名残、なのです。この場合の古典は「儒教」。つまり、大体江戸時代あたりまでの話ですね。
で、ですね。 「儒教」ってのはちょっと乱暴に言うと、道徳的、能力的にすぐれた「聖人」によって政治が行われるもの、ひるがえって政治を行うものは「聖人」に近づかねばならない、という思想なわけです。
よって、「儒教」は政治を志す場合の必須科目だったわけですね。*1
そんなわけで、「儒教」を学ぶとは「実務の知識+聖人の道徳」を学ぶという意味であり、ゆえに「教養」が「知識+人格」という意味を持っていたわけです。
しかし、明治以降学問の専門分化は進み、「儒教の知識」は役立たなくなった。
なので、現在日本で「教養がある」とは主に、「知識がある」の方の意味のみで使われるようになったのです。*2
では、古典を学ぶ事で得られるとされていた「人格」と「社会的地位」は、現在までにどこを流れ、どこに漂着したのか?
どうも、これがなかなか紆余曲折がくんずほぐれつとしておるようです、というかだから調べてるんですというか。
それではなんなので、今の所の考えで言いますと、
「皆が見ない知的なもの」を見る
「皆が見るもの」から、あるものを「知的なもの」として取り上げる。
「皆が見るもの」を見て、「知的な事」を言う。
っていう風に漂流しているように思うんですよ。
これが、「オタク」の方に“そういう人達”が流れてきた背景かなー、とか。
あー、長い割に「なぜ、オタクものの中で『(知識としての)教養がない』って言葉が出るのか」という部分に達してねー。
これはまた今度、やる気が出たらという事で。
キーワードは「“可能だった”と“不可能です”」ッてことで。
あー、尻尾を巻いて逃げそうだ。
つか、「森」がしたいっつーの!

*1:特に江戸時代

*2:逆に「教養が無い」という場合には、両方の意味が含まれている、ような。