? 感想 虚淵玄「鬼哭街 紫電掌」

中央東口角川スニーカー文庫・571円・ISBN:4044278091
内容を要約すると「この一刀に賭ける修羅」
さて、今日はちょっとネタを割るので注意してくださいね。
唐突ですが小説の最大の特徴はなんだろうかというと、字が書ければ創れるという金銭的、技術的コストパフォーマンスの高さにある。 だが最近は「書ける場所」が増えたために、そのコストパフォーマンスが仇になり金銭的には限りなくゼロに近い状態で文章が流通させられるようになったわけであります。(逆にリスクも限りなくゼロに近づいたわけですけど)
そしてそれゆえに「価値のある文章」というものが見出せにくくもなっている。 何かしらの付加価値―名声や装丁や評判など―がなければ文章にお金を払う必要など無いとすらいえる状況であるからです。
しかしそれでもなお「文章」をお金に換える方法を模索するのなら存分に模索すればいい。 上記を逆に言えば、価値さえあればまだ人は文章にお金を出すという事でもあるのですから。
さてさて。
「文章を読む快楽」というのは他のメディアとは違った面持ちを持っていると私は感じます。 この「鬼哭街」ノベル版を読んでよりその気持ちが強くなったのを感じます。
この小説はすさまじい。 なぜかというと、
これ、原作をほぼまんまで転写した物だからです。
それだけでもすさまじいが、それ以上に凄まじいのは原作―かなり一応エロゲーです―にあった「音」と「絵」のほとんどが省かれているにもかかわらず、いやむしろなくなったが故にか、面白い。
そして全く持って不思議な話なんですが、ノベルゲームと小説では情報の得られ方が全く異なるようなのです。 私自身の今回の体験からいうと、ノベルゲームはまず「絵」ありきなのです。 まず「文章」ではなく「絵」が最初の情報として飛び込んでくる。 いやむしろ無意識に「絵」を求めているとさえ言えます。 それが得られない場合は次は「音」を求める。  そして最後に「文章」を求めるのです。
これは漫画やアニメ、映像関係の影響もありますが、それ以前に人間の情報収集における「視覚情報」の重要度がそうさせるのだろうと思います。 「絵」は見るだけでいい。 「音」は聞くだけいい。 しかし「文字を読む」という行為は「見て」、「読む」の二段階の処理が必要になる。 ゆえに認識が後に回されるのではないかと考えます。*1
しかし、はなっから「文章」だけなら? そこに何か違いがあるだろうか。
ある。 それは「文章」の後から「絵」や「音」が沸き立つという事です。 面白い事に、よくよく見るとノベルゲームと殆ど逆なんですね。
「文章」が攻めるべき所は案外ここなのかもしれません。
ゆえに文章は死なず、であります。
・・・ただ、消え去るのみ、かもしれないけれど。

*1:この辺がエロゲーがダラダラ流せる要因でしょう