自殺形態論「正義と決定、死と生」

私は自殺に向かう精神状態を二種類に分けられると考えています。
それが「正義型」と「決定型」です。
順を追って説明しましょう。
まず、「正義型」の自殺というものは、借金がどうにもならなくなって、仕事がなくなって、精神がおかしいのかもしれない、など「世間の正義」からみて「まっとうでない」とされる時におきます。 つまり「世間の外圧」によって瓦解してしまう形です。
この形の恐ろしい所は、この瓦解した時、自分への罰として「自殺」するのではなく「金を返す為に犯罪を犯す」という方向にも走るところです。 実際、強盗や殺人などの動機で一番多いのは「借金で困って」というのが多い、そうです。
これは、上手く圧力を逃がせればいいのですけれど、それができないから圧力がたまってしまうので、周りが気をつける必要があるのかもしれません。
次に「決定型」、私がなった自殺への感覚についてお話しましょう。
そもそも「決定」とはなにか? 言い方が難しいのですけれど、「自分の死ぬ日が決まった」という感覚と言えばいいのでしょうか。 死神に寿命をあと何日って言われるような。「死にたい!」ではなく、「そうか、わし、死ぬんだ」という納得を得るのです。
つまり、「HBの鉛筆をへし折るように当然できる事」、「息を吸ってはいてする位自然な事」だと思ってしまうのです。
さすがに理性ではやばいと言うには言うんですけれども、自分を責め続けたせいで脳汁が変な方向に出るようになって感覚が鈍磨、あるいは無くなってしまうのです。
生理的な生への欲求すら磨耗させてしまうと、決定型になる。
「決定型」の方は、目の前にあるのは死だけです。 そこに至る過程がすべて「死」によって覆われる。 そうなると、周りなんか気にしなくなるんですね。
死ぬ事は決定事項なのだから、それに向かうなら何をしても関係ないと思ってしまう。 私の場合、ですけど。
こういう状態だと、「なんでこんな」みたいな事件になることも、ままあります。
そして一回、殺してしまうと、この場合は歯止めが無くなるから、大層危険になるのです。 近所でペットの死体が出るようになると…、という話にも通じますね。
簡単にまとめ。
基本的に「死にたい」っていってる段階では人は死にません。 例外はありますけどね。
その後にくるのが「死ななければならない」が正義型。
「ああ、死ぬんだ」になるのが決定型となります。
もし周りで「死にたい」っていっているやつが、ふっと言わなく無くなったら要注意です。
 
この両方の要素に近い形があります。 「覚悟型」です。 それは「武士道と云うものは死ぬ事と見つけたり」であり「正気にて大業ならず」であり「いきるまでいきたら 死ぬのだと思う」であります。
この場合、「正義」は常に「自分の基準」にあり、「決定」は「己」で決めます。 俺イズムといった方がいいのかもしれません。
さて。
面白い事にこの形は「自殺」の方向へは向かないのです。 死ぬ時は「正義」に追い立てられるでも、「決定」に従うでもなく、それがそうあるように、死ぬのです。 ここには「自殺」という言葉に押し込めない、何かの力があるように感じます。 良いか悪いか別にして。
ただ、この「覚悟型」は不用意に敵に回してはいけません。 それは覚悟があるがゆえに、敵に対して全く容赦なく、確実にしとめに来るからです。 それこそまさに「自殺行為」なのですから。
もうちょっと暗い話になると思ったんですが、結構すんなりまとまりました。 なんだかなあ。