鎌池和馬という作家についての一仮説「シーンテーラー」

鎌池和馬の作家としての能力は「シーン作り」の分野において最大限に発揮されている。
鎌池和馬の代名詞(というかまだこれしかない)「とある魔術の禁書目録」(以後と魔)はどの巻も一貫して同じテーマで書かれている。 それは「立ち向かう」である。 いっそいさぎよいまでにこれだけしか書いていない。*1
それでもマンネリを感じさせないのは、その立ち向かう「シーン」が素晴らしいという点に集約される。 そのシーンでも盛り上がり、大一番の緊張感の張り方が上手いのである。 例を挙げるなら四巻ラストの付近だろう。
どうしようもないような窮地に対して、それでも何が何でも「立ち向かう」神裂、上条、土御門の三者三様の立ち向かい方を書いたラスト周辺は「シーン」としては最大の見所であろう。 しかし、四巻では鎌池和馬の弱点も露呈する事になる。
それは、「シーンを魅せる為には、ストーリーの流れを犠牲にする」という部分である。 ストーリー全体のバランスが悪いのだ。 大ネタの中身と外見の入れ替えがあんまりいかされていなかったり、ミーシャがガムを食うシーンはインサートしなくてもいいよねだったりするが、それは後半に特に顕著になる。 
四巻ではまず神裂が脅威と相対して、それから上条が・・・という展開をたどるのであるが、問題は上条&土御門のシーンが長すぎるのである。 作者的にはどう時間軸のつもりなのであろうが、ページ数からして明らかに後者の方が長く、気が付くと「・・・こいつらこんなにちんたらしてていいのか」と思ってしまうのだ。(エピローグでちょっとだけしか言及されてないし)
他にも挙げるなら枚挙に暇が無いが、特にキャラの扱いが総じて「この人、必要だったのか?」という風なのもある。
一巻での美坂や神裂の扱い、二巻での“吸血殺し”姫神秋沙の扱いなどなど。 (特に姫神秋沙の扱いは唖然とするものがあり、私はしきりに「この人なんだったんだろう」と思ったものである。)
これらに共通するのはやはり「シーンとしては有りだけど、ストーリー上の必然性が極めて薄い」という事で、「シーン」の美しさが必ずしも「ストーリー」の美しさとはならない事を証明している。
「神は細部に宿る」とはよく言われる言葉であるが、その「細部」も「ストーリーとある程度結びついていないと宿らない」という事をかまち和馬は証明していると、私は感じる。
・・・この辺がもうちょっと良くならないかとは思うのだけれど、ここを良くしたら逆に面白くなくなりそうなんだよなぁ。 まあ。「これ以上は望めない」と五巻で読むのを止めたもののたわむれの言ですが。

*1:インデックスの、「今度はどこの薄幸美少女を助けに行くのかな!?」(大意)がある意味この作品の大きい側面を言い表している