必読書思想

必読書ってなんだろう? 必読とは?
辞書を引くと、

ひつどく[必読] かならず読むこと。 必ず読まなければならないこと。

とある。 読んで字の如くである。 
もうちょっと細かくいくと、「必ず」とは、

かならず[必ず] 間違いなく。 確実に。 きっと。

とある。
つまり、「必読書」とは「本の中で確実の読んでいないといけないもの」という事になる。
ここを少し考えてみたい。
さてさて、まず始めに確認しておかなくてはならないのは、必読書が「必読」になる為には二つの前提があるという事だ。
すなわち、

  1. 誰かに読まれている事。
  2. その誰かに「必」と判断されている事。

この二点である。 これは、当然といえば当然。 読まれていない本が「必読」となるわけがない。 そして、「必」だと思われなければ残っていないのだから。 だが。
だが、これは重要な部分であり、ここから、さらに一つの事が導き出される。
つまり、今現在「必読」となっている本は、「昔、誰かが読むべきだと決めた本」ものという事だ。
さて。
まず疑問に思うのが、なぜ「読むべき」という必要性の指標が生まれたのか、である。
考えるに、これは「これを読んでいると、お互いで話が通じる」という、共通の話題としての機能を本に求めているからではないかと思う。 同じ本を読んでいれば、それを基点に会話し、相互理解(または不理解)できるわけだ。 本読み同士なら、本の話は一番話題しやすいものでもあるので、「読むべき」を読んでいる時の連帯感は大きいだろう。
次に、「誰」が「読むべき」とするか、である。
最近の本なら、これは新聞、雑誌、テレビにインターネットなどで、いろんな人が「これは読むべきだ」として書評を展開している。 そういった人達が選んだ本を我々がさらに読み、「読むべき」と決めるのではないかと考えられる。 「読むべき」とはまず書評(評価)がありきではないか。
昔から残っているものも同様、こういった書評によって「読むべき」、そして「残すべき」とされて、読まれてきた物である事は想像にかたくないし、事実そうなのだろう。
さて、ここで「なぜ人は書評をするのか?」という疑問がでてくる。
この場合、その書評家達はその人たちなりの「読むべき価値」を本に付与しているのだが、ここで同時に「己の価値」も本に付与される。 「これを選んだあの人はえらい」、そして「あの人が読んでいる本は良い」という二つの価値が入り混じっているのである。
つまり、「書評」する事は「本の価値」と「己の価値」を同時に創出する行為だといえる。
結局の所、「誰か」が「読むべき」と決める時、その判断は極めて「その誰かより」なわけだ。
上二つを総合すると、必読とは、
「誰かが話を通じやすくする為に、恣意的に『読むべき』と選んだ本」
という考えに行き着く。 つまる所「必読」をたどるというのは、他人の価値観に沿っていくのと等しい。
そうなると、我々は「必読」に対してどうするのが良いのだろう。
実際問題として、本は多い。 ライトノベルに限定したとしても、とても多い。 その上、今日も着々とその量を増やしている。
となると当然、「必読」の量も増えていく一方だという事である。 このままだと必読というナの未読*1本に、買ってもいないのに埋もれてしまって身動きが出来なくなってしまう。 いいのか、それで。
いいとする案も当然あるだろう。 しかし、おのずから本を読むのなら、「必読」を念頭に入れつつ、己の方法を考えてみるのも手ではあると思う。
流行を追いかけるのか。
特定の評者についていくのか。
それとも、自分が評者となるのか。
まあ、いろいろだろう。
私の方法としては、まずあんまり読む速度が速くないので、流れに乗るのが苦手である。 次に他の人を参考にするというのも、その人が読んでいない本が読みたくなるので断念。
となると、最後に挙げた「自分が評者」の方法をするのが妥当であると考えている。
ただ、できるだけ、「これ読んでいる俺えらい」ではなく、「うわこの本面白いんだけどどうしよう」という形で楽しんでみる形を取る事にした。 その方が面白いからだ。
さておき。
「必読書」に対して、自分はどうするのか。 それをどこまで読むのか、あるいは読まないのか。 昔よりも本が増えている分だけよけいに、しかしきちんと、本読む人は考えておく必要があると思う。
……。 ライトノベル関係ないな…。 「俺の(私の)必読ライトノベル」って誰かしないかなぁ。「他力本願」

*1:ちょっと「〜という〜」を言ってみたかった