考えてみた。「封仙娘娘追宝録」編

 いやもう誰かが考えてるんだと思うんだけれど、まあたまには。
 では。
 鏡閃が理渦記を用いる理由。あの先生がいるにも関わらず、これを用いずに理渦記を選んでいる理由。これはつまり鏡閃がどういう状況なのかを現している部分なんじゃないか。そう思った。
以下ネタバレ。
 まず理渦記の問題点。それは「肝心要の部分を見逃す」という、やや抽象的ではあるけれど、策士としては致命的な欠点である。そして鏡閃はこの欠点を知っている。となると、これを用いるという事は理渦記が見逃している事を気にしない、という事に他ならない。まずこれが押さえるべき一点目。
 次に、鏡閃がなんの為に理渦記を用いているか。これは龍華への復讐の為なわけだけれご、ではその復讐の動機は? ここはあまり語られていないが、「復讐者<上>」での謎の映像の描写等はあるものの、鏡閃の口からは語られたことは無い。ではそれはなぜか。これが二点目。
 この二つが「二人の鏡閃」に関わってくる。「龍衣の鏡閃」と、龍華に復讐を誓う「鏡閃」の二人に。
 まず、「龍衣の鏡閃」方は仙人であったが、龍華に退治された。そして仙骨は封印されていたのが「復讐者<上>」で発見される*1
 「鏡閃」は仙人ではない。そもそも仙人なら既にその存在を知られているはずであるし、宝具をわざわざ呼び寄せる事も無かったであろう。ならこの同姓同名の二人はただ同じ名前であっただけだろうか。
 そうではない。確かに「鏡閃」は仙人ではない。しかしだからといって人間であると、誰が決めた?
 そう。「鏡閃」は人間ではない。「龍衣の鏡閃」に作られた模擬の「鏡閃」なのだ。だが、記憶が中途半端な状態なのだ。だから「鏡閃」は復讐の理由を語らない。語れないからだ。だから「鏡閃」は自分でも知らない謎の記憶を見る。記憶が中途半端ゆえにそれが何か分からないのだ。
 そして「鏡閃」は薄々自分の行為が「自分」にとって無意味である事に気が付いている。それでもしているという事は、「鏡閃」は復讐しなければ生きてはいけない存在だからなのではないだろうか。それゆえに彼の元に「肝心要を見落とす」理渦記が現れたのだ。
 これが、鏡閃がなにゆえ理渦記を用いるか、の真相で。
 あったらいいなぁ。<余談>
 さてさて。ここまで考えてみると、何故「龍衣の鏡閃」が退治されたのか、も見えてくる。つまり轟武と同じ事をしたのだ。命を創る禁忌に手を出したのだ。それゆえに邪仙として退治されたのではないだろうか。
 ただ、使い方は轟武と同じではなかったのではないかと思う。轟武は命を創る禁忌に耐えられなかったが、龍衣の鏡閃は「失われた命」に耐えられなかったのではないか、という節が謎の記憶のくだりから垣間見える。
 それゆえに、「復讐は聖なる行為」と導果先生は言ったのだろうか。全てはまだろくごまるに氏の頭の中にだけ、ある。

*1:その時には既に力は失われていた