跳訳についての。

 よくよく考えると、最近のライトノベルはそういう要素があるのが結構散見できる気がしたのですだよ。日本文学解釈改変「“文学少女”」しかり、僕のグロくしたグリム童話断章のグリム」しかり、SFってこういうの「食卓にビールを」しかり。他にも「走れメロス 他四編」とか「漱石と倫敦ミイラ殺人事件」もそういうタイプのものだなぁ、とか、クトゥルーとかもこういうタイプの集まりで出来てるんだっけ、などなどと、とりとめも無く思う。それなんて換骨堕胎?
 さておき。跳訳という観点から見ると「“文学少女”」は先に書いたように「私(あるいは遠子先輩、あるいは野村美月)の解釈した」文学作品をベースにしたものなのかなぁ、とか。だから世評とずれたり違ったりするのは理の当然。というか、そもそも何かを読み、感じる、というのは非常に個々に基づいた感覚、自分だけしか味わえない体験なわけで、その感覚がある一定の形に相似ずる事は有り得る*1けれど、真に同じ型にはならないのではないだろうか?
 だから「“文学少女”」における文学作品の捕らえられ方が世評と違うのは、むしろ意図的とすらみてとれる。これはわりと重要な所なんではないだろうか? とか夢想してみた。
 跳訳をだしにした「“文学少女”」メモでした。

*1:というより、そうなる事は本当はそうとう凄い事なのでは?