何故、傑作に会えると思うのだ。

 いつ見たのか判然としないのだが、ちょいと前に「ライトノベル読みは、その本の長所を見出して読む優しい読み方をする」という言葉を見た記憶があるのだ、がちょっと待って欲しい。
 これは優しい読み方ではない。諦観の読み方だ。
 ひとまず、私にとっては。
 なにを諦観しているかと言うと、「自分が読んでいる本が最高ではない」あるいは「あるはずがない」という事である。人の視野は狭い。だから今読んでいる本がどんなに良くても常に他に良いものがあるのが、当然ではないか。
 なら、今読むこの本にも上がある。そうわかった時、とれる手段はそう多くない。そのうちで、私は「この本を最大限に楽しむ楽しみ方をしよう」という考えを採用した。そうすれば、如何なものであろうと十二分に楽しめる。
 このような諦観を持っていると、楽しもうとしなくても楽しめる時、大変得をした気分にもなり、またその状況でも油断無く違う良さを見出せたりもするので、言葉のわりに悪い事でもない。だから、そういう風にしている。
 それに、傑作に会えるというのを信じていない、というのもある。先に断っておくが傑作はある。これはまず間違いない。
 だた、ある事と、会える事は、必ずしも軌を一にしない。いやむしろこう言おう。
 何故、会えると思うんだ?
 傑作はある。それはたぶん確からしいだろう。だが、そこに至れると何故思えるのか。
 金を払ったから? それは単なる端緒であり、傑作を引き寄せ得る理由にはならない。
 ある人が褒めていたから? それはその人にとっては、だ。自分の傑作になりえる理由にはならない。
 だから、自分の読むものが傑作でない事を嘆く人に対して、私は、こう、思うのだ。
 何故、そうも簡単に会えると思うんだ?