俺、沙英さんの部屋の畳になっていいから居つきたいよ、な簡易日記

 と思ったけど、良く考えるとひだまり荘はフローリングだったしにたい。←しぬの早すぎ
 今日は粛々とお仕事、とみせかけ、ほとんど暇。するべきことが午前中に済んで、時間終わりまで待ちぼうけ。ひたすら暇でしたよええ。今後の事を色々考えて鬱るくらいに。窓際族って厳しいんだなー。
 さておき。仕事終わりでその近場にある施設に行ってみんとす。図書館が併設されている、と最近になって知ったので、その能力の程を確かみてみたのであります。結果はわりと良い所、と判定。蔵書量は規模からしたらそんなものだよねー。県立図書館と比べちゃダメだよねー。って位でしたが、人があまりいないという利点が大きいアドバンテージ。平日昼、ってことを勘案しても結構穴場か、ここは。県立図書館はえらく人が多いから、席があっという間になくなってしまうというマイナスがあるので、それに比べると非常によろしい。それに家からとても近いのもポイントで、これならなんとなく居つくにはいい場所ではないだろうか。と考えてみたりしました。今後しばらく、ここに本を持ち込んで読むってことが週課になりそうな予感。ついでに、家でははかどらない諸事情も、こっちでなら……。ついに貯金を切り開いてポメラ買う時が来たかっ。
 とかなんとか調子ノリノリでした。金はまああるから、出来ないこっちゃないし、いずれ欲しいと思っていたんだから今がその時だ。
 とかなんとか。
 ニコニコ断ち33日目。まあ、こんなもんでしょ。
 ちょっと久しぶりにぐだったので、続き&反転。
『死にたい』に対して、生きていればって言うのはわりとナンセンスではないか、というのを愚考え付いた。生きていれば、って言う人はそもそも生きていればに辿り付けた人、つまり死ななかった人なわけです。死ぬほど苦しんだけど、結局死ぬほどではなかった人であり、つまりそれってやっぱり一側面でしかなくて、実際に死にたいになって死ぬしかない状態もまた一側面としてあるんだろうと。でも、死にたいで死ぬしかないになった場合の話は誰にも語れない。何故ならそういう人は死んでいるから。死なずにいれたらつまり生きていればの人になるわけだし、死んだ人の意見は誰も聞くことが出来ない。まさに死人にくちなしであります。そういうわけで、巷では死ぬしかないに対して生きていれば、っていう一側面しか語れない日々が今も続いています。