喰らう読書術 ~一番おもしろい本の読み方~ (ワニブックスPLUS新書)
- 作者: 荒俣宏
- 出版社/メーカー: ワニブックス
- 発売日: 2014/06/09
- メディア: 新書
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- 作者: 大澤真幸
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2014/09/12
- メディア: 新書
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読書術、という文言を踊らす本は数多あります。星の数ほどある訳じゃないですが、それでもたくさんたくさん、ある訳です。その中で独自性をどう出していくか、というのが今ある読書術の本には求められるハードルなのです。そう言う意味では『喰らう読書術』(以後『喰らう』)と『<問い>の読書術』(以後『問い』)はそれぞれ違う味わいがある本となっています。片方はいい意味でその手法に興味をそそられるものであり、もう片方は悪い意味でその手法に興味をそそられるものでありますが。
まず悪い方とり断じました、『問い』の方が何故悪い意味で、つまり邪推権を重点してしまうかという話をちらちらとしましょう。この本が何故悪いと、そしてどういう意図があるのかと悪い意味で気になるのかと言うと、読書術の本と言うのにその基本である読書術の部分がおざなりというかほとんど形骸化している、ぶっちゃけ単なる書評にちょっと<問い>はこう立てるんですよ、というのを組み込んでいるだけな点が最大にして最高の問題点であります。書評なら書評で売ってよ! という気持ちが先行するのです。これはまあ、先に内容立ち読みして判断しなかったこちらの手管が悪いというのもあるんですが、それにしたって『<問い>の読書術』ですよ。これは、って思うじゃないですか。
対する『喰らう』の方はこれは読書についてそれなりに思う所がある人なら、そのぶっちゃけぶり、それでも入ってきますか? という読書人としての礼節がきっちりと組み込まれているのが分かる仕儀となっております。なにせ、「はじめに」の次の文言が
読書は面白いはずだが、実際はつらい
(p3)
です。これだけで持っていかれる人は持っていかれると思います。実際、自分は書店内であわや爆笑の域まで持っていかれました。そういう本ですから、読書術としては勿論、書評としても感じ取れる内容になっています。先に書評なら書評で売ってよ! と言ったそばからこの掌返しですが、こっちがそれでもいい。と思えるのは、きちんと読書のあり様について書かれている部分の紙幅がある事と、ちゃんと読書をこういう風に繋げていけるんですよ、という読書術の術中の一つを見せているからです。これは『問い』には全くない部分であり、ゆえに『喰らう』が対比で浮き上がって見える理由であります。
『喰らう』の文章は軽妙です。それでいて、「先に言っておく。読書はいばら道だぞ!」というのをしっかりと書いています。
それなら、本とはそこそこの付き合いに止めればいいのではないか、とおっしゃる方もおいででしょう。もちろん、それで一向にかまわないのです。しかし、「本とそこそこ付き合う方法」などといった書籍は、書くほうもおもしろくないし、読むほうだって意味がないでしょう。
(p4)
正直に、はっきり申します。聖人にも、悪人にも、また偉い物識りにも、なれません。ただ一つ、メリットといえば、人生に退屈せずに済んだことです。
(p8)
この通りのぶっちゃけぶりなのでそれが笑い話としてきちりと機能します。元々が単なる、というと失礼かもしれませんが、基本書評の『問い』とは、根本的に足腰が、やりようが違います。*1 本との付き合いは色々大変だけど、それでも先に何かある、とか言わないのもいいです。本を読めばすこぶるいい、「読まねばならない」というだけの物、つまり『問い』に内在しているその雰囲気とは、全く違う「読まねばならない」があるんだけど、そこまで求めない方がいいよ。というノリがあるのがいいのです。『喰らう』では本と付き合うポイントとして以下が挙げられています
・本を読む手間を惜しまない
・本棚には読まなくても本を並べる楽しみがある
・真の読書は、読むことに直接の利益を期待しないことである
(p6)
読書人を多少なりとも自称出来る方なら、げらげら笑いながら、しかし「然り」と言える三点ではないかと。こういう部分が、書評ゆえに『問い』には無いのです。
もう一つ、『喰らう』と『問い』における大きな差異があります。それは、個人的な事で恐縮ですが、私がその本二つで語られた本が読みたくなる率に大きな差があったのです。
『問い』は書評の本なのだから、そういう筋道が『喰らう』より強いはずではないか、と思われる方もいらっしゃるでしょうが、本当に、圧倒的に、『喰らう』で語られた本が読みたくなるのです。この点はどこに起因するのか、というのは色々考えられますが、二点あげましょう。
一点目は、『問い』にある「こう読め」という押しつけの雰囲気に嫌気がさした、という部分があります。そもそも、読書術として本を読む時に問いを意識しよう、という段だけなら特にこちらもそうですかー、ってなるだけなんですが、『問い』は書評本です。畢竟、その著者が見出した問いを、こちらにこういうの考えられましたか? ってやってくるのです。鬱陶しいの四文字ですよ。しかもこの問いは著者の見出した問いなので、こちらがどういう問いをするか、という部分の自由度が全くない。色んな問い、著者の予想外の問いも浮かび上がってくる場合もあるのに、そこをフォローはしない。そこがどうにも、だったのです。一か所だけ、他と違ってどう問いを立てる? というワークシップがあるんですが、そこでも答えは決まっていて、ご丁寧に著者の自著に解答が、というのもあるのもどうにもこうにも。そこまで押しつけられてしまうと、その書評だけで満足するしか、ないじゃないか。という気持ちになってしまったのです。
二点目は、『喰らう』にある「この本、面白いんですよ!」という読書人のプリミティブな感情に直接訴えてくる手法が優れている事です。これはまず最初から書評っぽくなる後半手前まででも読書ってね、読書ってね、というのをきっちり積み重ねながらこういう本があって、こういう内容で、こういうの面白いんですよ! ってやってきて、そこもまた楽しそうなんです。それが更に面白くなるのが、ある題材から色々あちこち本への興味が移っていく、あれを読んだらこれが気になる、そういう読書人を自認する人ならばよく分かる尻取り的読書を語り出す辺り。何せ尻取りだから尻から、という導入からどんどんと発展していくんだから、そりゃ楽しいですよ。荒俣せんせの筆もノリにノって、そのドライブ感に呑み込まれる楽しさと言ったら! そして、その本が本当に面白かったんだな、と思わせる力と言ったら! 基本的に『喰らう』も『問い』も全体の筋立てというかどういう内容かはわりときっちり書いているんですが、それでも前者の方が読みたいのは、「半端な気持ちで入ってくるなよ、読書の世界によぉ!」というのを先に書いて、笑顔で脅しつけておいて一転、テンション高らかに「この本面白いよ!」って言いだすツンデレ具合がツボに嵌ったからかと思います。
また、そういうテンションながら、ところどころで冷静さも目隠れするのもいいのです。
第三に、いくら本を読んでも、その分私たちの人格が高貴になるわけではありません。
(中略)
そして何よりも、私たちが本で身につけた知識や教養など、多くの人にとっては何の関心もないことが多いのです。
(p80〜81)
『問い』には無い、読書の根本的な弱点をきっちりと書いている。と思ったら次の瞬間この本面白いんだよ! って言いだすこの振れ幅! この情熱と冷静の間がある荒俣せんせが面白いという本だからこそ、読んでみたくなるのです。*2 押し付けられて読む、というのにも用法があるとは『喰らう』にも教養的な読み方としてあげられていますが、それでもやっぱりそれならそれで、大義名分ではなく「面白い!」を読んでみたいのが、人情なのではないかと、思ったりするのでした。
「まとめ。そうねえ、役に立つ事ばかりが全てじゃないってことかな」
「そうですね」