オタクと教養とオタ教養についてぐるぐると、の弐

初めに

 オタクと教養とオタ教養についてぐるぐるします。とっちらかる可能性は大体100%であり、誰に見せるんだよ的な文章ですが、自分の中のアウトプット欲が爆発四散!しそうなので書き散らしていきます。そういう訳で、文体も無茶苦茶に、そして取り留めもなくなるでしょうが、というのを二度も言うくらいにはぐるぐるしておるのです。それではいってみましょう。

弐「にわかと<オタ教養>についてのえとせとら」

 前回の終わり際に意訳するとにわかへの立ち振る舞いが<オタ教養>の光る場面であると書いたと思うが、そもそもの問題として何故にわかは当然のように存在するのか、という物があると思う。これはやはり全ての知識があるのが当然とする考え方が変であるという事になろうか。つまり、当然と思える知識が当然ではない、という事実が存在すると言うことである。とはいえ、その界隈で会話するならこれくらい知っておけよ、というのは当然あるだろうし、更にちょっと周りより知ってる、けど界隈では当然の知、のをひけらかしているのを見れば、馬鹿にしたくもなろうもので、それについては気持ちは大体理解出来るんですけれども、それで済ませていいのか、という事が気になる訳です。
 さておき。
 語る為に知がある事はどこまで優先されるべきか、という考え方をしてみると、これが線引きが難しいという事実に直面する。というか、どのラインまで知識を求めるか、というのが局面で違い過ぎるからです。局面というか、場面というか、とにかく人と人とのコミュニケーションの場のレベルによる、としか言いようがない。場面場面で正答があるか、というのも難題ですが、とにかく場面による、という事は間違いない。
 そう考えると、にわかの問題について一つ思い浮かぶ事が生まれてくる。それは、ネット上というのがその場面というのが計りにくい場所である、という事です。あるいは同じ場にたくさんの知識レイヤーが混在している、という言い方の方がいいでしょうか。例えば、Aについて話す場合でも、Aの表層な軽い内容から奥に突っ込んだ深い内容まで、様々な情報がある訳ですが、それに対してAを語る場が一カ所しかない、あるいはように見えるがゆえに、Aについての知識量が様々な人が同じAについて語れば、そりゃ当然知識差による混乱が生まれ、知識が無い人をにわか! といいだすのは理の当然ではある。この状況が、昨今でにわかが気になる一因ではなかろうか、という風に思うのです。まあ、実生活上でも層の混在はあり得ますし、ネット上でもその辺のレイヤー分けをしている場面もあります。
 でも、やはり混在する率というのはネット上のが高いのではないか。ぱっと見狭い範囲と思っていても、実は広い場所で言っているというのに気付きにくいのではなかろうか。以前から依然あるSNSでの軽犯罪自慢みたいに、自分たちの周りだけと、内輪受けだと思っているのが、その予想より、それも大変に、広いから生まれるあつれきのような気がする、と勘で言ってみます。そうじゃないかなあ、という予感があるんですよ。
 さておき。
 にわかは、特に声の大きいにわかは、ネット上だろうと実生活上だろうと、うっとうしい相手だ。とはいえ、我々も知らない事についてはやはりにわかになりやすい。というか大体の事に対してにわかではないか、とすら思うんですよ。そのにわかである、という状況にあって、ではどうするか、どう振舞うのか、というのが原義的な<教養>の存在する場所であり、それがオタ物件なら<オタ教養>として立ち上がってくる、と考えるのが妥当でありましょうか。これは単に知識だけではなく、立ち振る舞いも絡んでくるのでは、とも考えてしまいます。そもそも、知識がある事には人の身には限界があります。所謂オタク第一世代の持っている知も範囲が限定的であり、その上でその知を得る過程で、あるいは得た過程で持った方法論と立ち振る舞いで他が語れるに過ぎないとも言える。あるいは、そういう方法論も、経験知も<オタ教養>なのかもですが、それだとやっぱりすぐに英知を授けて見せる、にわかをいっぱしのオタにする、というのは難しいのかなあ、と書いて、今回の項を閉じたいと思います。うん、眠い。