感想 小野寺浩二 『姉と修羅』


小野寺浩二『姉と修羅』
(画像、文章ともに物理書籍のページ)

 大体の内容「ああ、姉道とは修羅の道」。姉萌えの男に、義姉が出来た。そこから始まる修羅の道。それが『姉と修羅』なのです。
 小野寺浩二漫画というので一番に思いつくのが『妄想戦士ヤマモト』な私ですが、これはその名作と魂の部分で軌を一にしている漫画であります。萌えに狂っている、萌え狂っているのではなく狂っているのが『妄想戦士ヤマモト』でした。その部分、萌えの部分で狂っている、それも姉萌えにというのが、『姉と修羅』な訳ですよ。これが頭おかしくならない訳がありません。萌えに熱い、それが小野寺浩二漫画の真骨頂な訳ですよ。
 で、この漫画がどれくらい萌えに熱いというかというと、この漫画の主人公であり、姉萌えに猛り狂っている山路灰児の、姉が出来てからの初手で考えたことが、足コキしてもらえる! だった点で熱いです。熱いを通り越して違う熱さになっている感がありますが、そういう嗜好ゆえに致し方なし……。なのです。そういう男の子のアレさがこの漫画の笑い所と共感所であります。気持ちが猛り過ぎて姉にあれをむにゃむにゃしてもらって、そしてムショぐらし已む無し。まで考えるのは流石に笑う以外の行動で対処できないですけれども。そう言う意味では一話目でこの漫画についていけるかのジャッジが下されるので、試し読み<http://sokuyomi.jp/product/anetoshura_001/CO/1/>等を駆使して行く必要があるでしょう。
 さておき。
 この漫画は小野寺浩二漫画なので、先に書いたように萌えに熱い漫画であります。その熱さが限界点を突きぬけつつ、しかしギリギリアウトのラインでなんとか踏みとどまっているという、いやそれアウトやん!? な訳ですよ。青年誌なら出来る。青年誌だから出来る! というものをやれるようになったんだなあ、と昔からの読者としては感慨深いものがあるんですよ、こういうのは。で、この漫画の熱さというのは余人にはついていけない、という風な処理がされています。灰児と藍原の二人の猛り狂った姉萌え話に、周りがどん引きしているのがなんども、モブの雰囲気として出されているのです。それくらい二人の逝く道は計り知れないものがあるのです。そりゃあ、姉の入ったお風呂という聖水を求めたり、姉の下着を喰らおうとしたり、姉の下着と自分の下着が洗濯機の中で一緒になってもうSで始まってXで終わるあれやん! とか言い出すのでそりゃあついていける余人がいたら怖いですよ。ついていけないレベルだからこそ笑えるというか笑うしかない、というのがこの漫画の基本でありますし、周りの人も引いてみている訳ですよ。
 しかし、最終回でこの流れに一石が投じられます。この引いていた他のモブが、姉と別れることになるというのでメソメソしていた灰児に、喝を入れるのです。灰児達の暑苦しく頭おかしいまである萌え狂っている様に、最初は邪険だった周りが、いつの間にかそこに男を見ていたのです。だから、くじけるな! と喝を入れるのです。ここが一周回って燃えポイントになっている辺りが、この漫画の常軌が逸している箇所といえましょう。伝染する頭おかしいって怖いやん? でも、熱いポイントではあるのが大変厄介ですよ。これ、俺も燃えてないとおかしいんですか!? という。こういうのぶっこんでくる漫画家さんになっているのだなあ、と妙な好々爺めいた気持にも、なるんですけれども。
 とかなんとか。