ネタバレ徒然 『レディ・プレイヤー1』

ということで見てきたんですが、余りに傑作過ぎてネタバレ全開で徒然しますが構いませんねッ! と、題の方にもやっているのに更に宣言して、ネタバレ全開で、思い込みも全開で徒然ていきます。一応続き記法の方もしておきます。
では、情け容赦なくネタバレ全開で徒然ていきます。
レディ・プレイヤー1』、実際傑作です。VR世界を舞台にオタク薫全開でやっていくというこの作品が映画化する、それもスピルバーグおじいちゃんの手によって! というのを聞いて邦題『ゲームウォーズ』(以下ゲムウォ)、小説版を即購入即読み終わりかましました。この作品、小説の時点でもう堪らない出来の良さ。仮想空間OASISの壮大さとかに惹かれましたが、これについて書くとこの項がそれだけ終わってしまうので、ここはあえて避けて、そのシネマライズである『レディ・プレイヤー1』(以下レディ1)、元々の題の方をあえて使ったこの映画の方に話を移していきます。
まず先に言っておきますと、レディ1はゲムウォとは実はかなり話が違います。大筋の流れや、キャラクターの配置、必須小道具などは同じなのですが、セクションセクションが全く異なる場面もあります。例えば、ゲムウォでは学校のシーンが序盤あるのですが、そこがまるっとありません。そもそも最初の鍵、ブロンズキーの取得の条件がゲムウォでは隠しダンジョンの中のゲームのクリアだったのが、レディ1でOASIS内の難攻不落のレースゲーム、最後にキングコングが出て進行不能、というものになっています。これを、冒頭の掴みにがつっとやってくるんですが、それはさておき。
かように、レディ1とゲムウォは違います。実際、8割方がレディ1オリジナル要素で、ゲムウォの方の要素は2割あればいい方という状態です。原作と全く違う話ゆえ、私映画館にてめんくらいましたよ。
ですが、この映画の恐ろしい所は、その改変が、全く違和感がないという事です。大幅な改変が加わっている訳ですが、それがあっても、ゲムウォの方向性とは軌を一にした話になっているのです。
8割も要素が変わっているのに、このこういう話でもあり。というかこれもこれで別の時間軸のゲムウォなのかも、という、原作既読者でも納得の仕上がりなのです。これははっきり無茶苦茶なことですよ。スピルバーグおじいちゃんとんでもねえな! あるいは原作者アーネスト・クラインも絡んでいる部分だからかも、というのもありますが、でもここまで違う話に舵を切っていく、という発案をきっちり受けたというのも凄いし、それでいてちゃんとエッセンスは間違っていないけど原作とは違うという物が生まれるのもとんでもない。なんだこれ! 案件です。
さておき。
そういうシナリオ面の見事な仕事も耳目を引くべきところではありますが、個人的には色んな端々が堪らなく味わい深かったことを記載していきたいと思います。
勿論、オタネタ的な部分は大変素晴らしい。メカゴジラVSガンダム(何故かZZのポーズをとったりする)という段階で、ゴジラのテーマがきっちりアレンジして流れた時は爆笑しそうになって口を押えるのに必死でしたし、この作品のキーであるハリデーのことを話す時の主人公がやたら早口でまくしたててしまうというオタあるあるもくつくつと笑う部分でした。VRネタゆえに、ヘッドマウントディスプレイしながら何かやっている人たちがそこかしこにでてくる、主人公が隠れ家に行く最序盤のシーンもさり気ないネタっぷりに唸らされました。
しかし、この映画のいいところはそこではないのです。主人公とヒロインの真の邂逅で終わるゲムウォともまた違った、でもゲムウォでもそれは感じられるんですが、ある二人の話として、大変、大変に素晴らしいのです。
その二人とは、OASIS創設者ハリデーとモロー。この二人の、どうにもならなかった友情物語として、レディ1は立ち上がっていると言って差し支えないのです。
この話は、OASISの開発者ハリデーが死に、超巨大産業となったOASISの利権をゲーム用語でのイースターエッグ、つまり隠し要素を解いたら渡そう、という遺言によってわちゃわちゃする、というものです。そこに、二人の友情の破綻が、細かに混ぜられているのです。
ゲムウォでも、ハリデーの行ったイースターエッグ探しの終わった後を、最後の友情としてモローがフォローしていく、というのを文脈から感じ取って友情エモーショナルだったんですが、レディ1ではこれが更にもう一段階深く、細やかに、さり気なく、しかし存在感を持ってあるのです。
本当か? という方の為に申しますと、まず最初に与えられた3つの試練のうち、ブロンズキーとジェイドキーの謎はそれぞれ、ハリデーがモローとたもとを分かつ場面と、ハリデーが恋して、しかし勇気が持てずに最終的にモローの妻となった女性が鍵となっています。どちらも、モローが関係しているのです。
これだけならまだ、ですが、ここにもう一段あります。最後の、ハリデーがOASISの主として署名をしろ、という場面。これが最後の試練なのです。ここはオリジナル要素ですが、さておき主人公はこれがハリデーがモローに持ち株を自分に譲渡するように署名させた事実と結びつくと気づくのです。そして、それを最大の過ちだった、としていたのにも気づくのです。
共にOASISを立ち上げ、大きくして、しかし仲違いした二人。そのキーとなる場面を、試練の形としてハリデーは韜晦していたのか、という内容です。どれだけの悔いを持っていたのか。それでいて、こういう形でしか懺悔出来なかったという事実がまた重い。
更に申し上げれば、作中、ジェイドキーの取得の場面で出てくるバラのつぼみ、という言葉があるんですが、これはモローの妻となった女性をさしていた、のではなく、モローをさしていたのだと、最終盤で主人公はモローに告げたりもします。そこでのモローの顔もまた味わい深いんですよ。ハッとしたというのが見えて、もう。
と、ここまではハリデーからのモローへの気持ちです。コミュ症気味でオタク気質なハリデーからの、もう仲直り出来ないという悔恨、人間関係が苦手なギークらしい一方通行なそれですが、ここにもう一段視点があるのに気づかれるかと思います。
そうです。モローからのハリデーへの気持ちです。
これについては、最後の方で、またしてもオリジナル要素ですが、ハリデーの情報をまとめたOASIS上のコンテンツを、ハリデーの死後に生まれたそれの管理者、キュレーターとして振る舞っていたのがモローだ、というのが明かされます。ハリデーから託されていたものを、恣意的にせず、ただ見守るだけをしていた、というのがモローなのです。おそらく自分が、OASISの実権を握れる、という位置にいるにもかかわらず、そうはしなかった。そこに、モローのハリデーに対する思いが垣間見える。そんな気がしたのです。分かるやつだけ分かってもらえればいいって素っ気なさの塊のような描写しかないんです。でもだからこそ泣ける。本当どっちも不器用すぎんよー。でも、今更元の関係には戻れなかったというのがもう、尊い。マジ無理……、最the高……。
ちなみに、キュレーターがモローである、というのは作中にしっかりと伏線が張られています。モローの妻となる女性の話題が、一つしかアーカイブにない、というのをキュレーターが知らなかったことと、それならたくさんある、とキュレーターが言っていたことです。モローなら、妻のことを話題にした場面が他にあると知っている訳ですよ。ほんと、細かい伏線にも程がある!
さておき。
そろそろまとめましょう。原作からかなりの改変を経て、そして基本の話どころか傍流にもきっちりと含みを持たせる見事な仕事、といったところでしょうか。スピルバーグおじいちゃん、マジで化け物なんだな、というのを感じ入るには十分なものです。原作から8割変えて2割を残して、というので全く違和感なくお話が成立するし面白いし、傍流なハリデーとモローの話は妄想をたきつけるには必要十分で、とにかくおっかねえ! スピルバーグおじいちゃんおっかねえ! となるのは必定でしょう。いやあ、ほんま凄い作品になっているですよ。
最後にどうでもいいことなんですが、敵役IOIの方もしっかりと描写があったのも、特に解析班が心底楽しそうにこのゲームじゃないこのゲームじゃないしてたり、最後に主人公が勝つのを見て喝采上げたりして、こいつらにとっては本当にいい職場なんだなあ、勤めたいなあ。ってなりました。この辺の敵味方越えた含みもまた眼を見張るものがある、って本当に隙がないなあ!
とかなんとか。