オタ教養集中妄義 そして4になる

この項にかんすること

 オタクの教養、オタ教養とは、というのをぐだぐだとしてくエントリーです。昔から都度都度考え、まとまらない案件なのであり、言っていることがエントリー内でこんがらがることも往々ですので、あまりガチなことを期待しないでいただきたい……。と葉隠覚悟顔で挑んでまいります。ちゃんとまとめろって? ハハッ。
 さておき、それではいってみましょう。

オタ教養とオタ知識とオタ態度と承前編

 今までだらだらと書いてきましたが、とにかくオタ教養とは、という部分について全く書いてない気がします。書いた気もするのでアトモスフィアがおかしいのですが、それはどうでもいい。オタ教養とはというもっと核心の部分についてだらだらと書いていきたいと思います。
 オタ教養とは、つまりオタクの教養ですが、これについて語るとするとオタクの知識、オタ知識と峻別する必要があります。普通に考えると峻別する必要はないんですが、個人的に「教養がない」という言葉は単に「知識がない」というのと差がない気がするのです。バカなことは大体知識があればいいはずで、そこで教養を持ち出す必要性はそうないはずなのです。
 という風に話が逸れかけていますが、このまま進みましょう。前に教養は知識と態度だという話をした記憶があります。記憶違いじゃないと思います。だよな。だったらいいなが形になりますが、それはさておき単純に知識ではなく、知識に則った態度もまた、教養であるというのがワタクシの持ち論であります。なので、知識だけあればいい局面ではそれを教養というのがはばかられないのだろうか。と思うのです。教養と言うのが言っていいというのは、最近の例だと令和の令が命令の令だ! というのは単に知識が足りないだけではなく、自分の批判精神に引き寄せる為だけに禍った態度をしているとことか、あれは教養がないでいいかと思います。むしろあれこそ教養がないです。同じこじつけでも美しい日本、っていった方が居たらしいです、それは教養があるですね。でも、そういうのではなく、単に知識がないだけのパターン、知識だけあれば特に問題なかったパターンでも、教養がないと言われるのがどうなのか、峻別する必要があるのではないか、と思う訳なのです。
 さておき、オタ教養とは何なのかの話から大外を回って関係なくなっております。まずオタ教養とはオタクな知識とオタクな態度という風に言いたかったのに逸れに逸れました。そして言いたいことをサクッと言ったので次にいきます。
 ですが、オタク態度ってよくよく悪い意味に囚われそうです。この辺上手く言い方変えたいですが、ぱっと思いつかないので、このままオタク態度とします。それほど逸れるとも思えませんし。

オタ教養とオタ知識とオタ態度と結末編

 では、オタ教養の両輪であるオタ知識とオタ態度とは、一体何か。オタ知識についてはさくっと分かると思いますが、いやいやそれはまだ煮詰めていないですよ? ということでカカッと考えていきます。
 オタ知識、という言葉はいかにもオタクな内容になりそうですが、そうでもないのでは、という気もしています。狭義と広義で差があり過ぎる、というべきでしょうか。狭義、つまりオタオタした、アニメや漫画やゲームのオタク、というのから、広義の、つまり小説でも絵画でも音楽でも、オタクと言えばオタクになってしまう範囲のオタクまで、油断すると幅がむやみに広くなってしまうのです。なので、オタ知識、という時にどこに軸線を置くかで、オタ教養の形まで変容してしまう、というのがオタ教養の難しさとして立ち上がってきます。この辺を考えると沼なので大変やり甲斐があるんですが、しかし紙幅の関係上、今回は狭義のオタという方向で話していこうかと思います。
 では狭義のオタのオタ態度とは? ここも面倒です。まずステレオタイプなオタっぽい挙動がオタ態度か、と言われると違うでしょう。オタであるからには、オタらしい態度がある。それは教養の態度とはまた違う。というのが個人的な考え方です。そこについて話すと話が逸れるのであえて逸らしていきましょう。
 オタの教養というのにある態度とは、オタとしての満足を追求する、というものだと思います。一般的に教養で言われるような、修養的な要素とは、そこで一線を画す、と言える。あるいは、教養というものの態度も、自分の満足の追求なのでは? という気もするんですが、そこには知見が足りないので要調査です。
 さておき、オタの態度とは、己の満足を求める態度、という風に定義しましたが、では満足ってどこなのか。さあ、満足させてくれよ! という満足への期待から、それで満足するしか、無いじゃないか……。な妥協満足まで、様々ありますが、個人的には追及する為には満足への期待という態度は結構求められるものではないかと、思う訳ですよ。期待する、というのは全くノーモーションでは出来ない。情報を知っているからこそ出来る態度です。偶に期待し過ぎて凹むとかもありますが、それは一種の通過儀礼。その求める物の情報を如何に得、如何に解釈するか。そして如何に期待するか。そういうのがオタ態度として一つ立ち上がってくるのではないか、そう思うのです。
 満足への期待というのを適当に出したわりにしっくりきてビックリですが、でも結構ここは肝要であると思うので、またしばらく考えます。オタ教養の態度部分は、普通の教養とは違う側面がある、というのは教養という物とオタ教養という物の差異として重要事項であるかもしれないまでありますからね。つまり、オタ教養というのはどこをどう言っても、己の満足の為にある、というのを表している可能性がある。ということですよ。まだ検討段階ですが、案外そう間違ってないのでは? 相手にマウントを取るのも、知識を、あるいは体験という知識を持っていることを誇るのも、それも、満足、したぜ……。という立ち回りの為ということでに集う、という満足の為ゆえの宿痾であるとも言えそうです。そこが、一般の教養でもあるけどアトモスフィアが違う要因では、という風にも繋げられそうです。ということで、またしばし考えるターンに入りますよー。

末尾にまとめ

 大体こんな所。

  1. オタ知識の話をすると複雑になり過ぎるのでスルーした
  2. オタ態度の話は、満足という言葉が便利に使えそうである

 とかなんとか。