伊藤明弘『ディオサの首』について称揚しようというカタリ

ディオサの首 (1) (サンデーGXコミックス)

ディオサの首 (1) (サンデーGXコミックス)

初めに

 この項は、伊藤明弘『ディオサの首』があまりに素晴らし過ぎる為、出来る限り称揚しよう、という趣旨で書くものです。
 感想は、
hanhans.hatenablog.com
 であります。ついでに伊藤明弘カタリもかましつつありますので、読まれていると、それでもたぶんこのあふれ出るモノに対して色々あるんだな。という理解の一助になるものと思われます。たぶんきっと。
 さておき、それではいってみましょう。

『ディオサの首』の一話目について

 伊藤明弘及び『ディオサの首』を称揚する方法、その導入を色々考えたのですが、結局一話目をカタル。これから入るのが多分この漫画をきっちりカタレるであろう、という判断で、『ディオサの首』一話が如何に優れているか、というのをつらつらとしてみたいと思います。とにかく優れているという言葉しか出てこないのですが、それでもなんとかきっちり語りたいと思います。
 ちなみに、サンデーGXのサイトにて一話目の試し読みが可能なので、それを適宜参考になさっていただくと、更に理解がよくなると思います。とにかく作りが凄すぎてあたまおかしなりますし、この文章もどんどんあたまおかしになっていくし、読んでる前提っぽく書いていきますからね。
 さておき。
 まず、一話目、と聞いて皆さんが想像するのは、どういうものでしょうか。
 大方の人は、この漫画がどういうものであるかの提示、と言われるかと思います。某などは、『コミックマスターJ』の名台詞よろしく、面白い漫画であることが決まるのが、一話だと思っています。どういうものかという提示ではなくても、どういうキャラが動くのか、というのでもいい。この漫画が面白いというのを確認させてくれるのが一話、と言えるでしょう。*1
 その伝でいくと、『ディオサの首』の一話は優れているという言葉以外に何が使われようか、と言うレベルでこの漫画の面白さを全部乗せしています。しかも映画で言うなら3シーンだけなんですが、それでこの漫画の面白いところがどこから来るか、というのを提示しきっています。
 まずワンシーン目。誰かが今から自分たちがすることを、如何に穏便にすませるか、という噛んで含ませからの導入になります。そのあくまでソフトに、という言から酒場に入って次に出る言葉は「警察だ!」という、にわかに穏便に済まないだろ! なもの。
 そして、写真の男について、問いかける、その男と手錠で繋がれた女の風体は、どうにも警察と言うには怪しい。
 女の方も、男が詰問しているのにいきなりテキーラを頼みだす。
 明らかにおかしい。と、読者が思っているところに、ごろつき達が、本当に警官か? と絡みだす。そして読者がおかしい、という気持ちになっている部分を、ガスガスと暴いていく。なんで手錠つけたまま入ってきているのか。パトカーはない。写真の男は警官。警察バッジも、よく見れば違う人間のもの。
 事ここに至り、男と女、主人公のアツシとモニカが、警官では全くないことが暴かれるのです。
 そして、モニカの帽子をごろつきが踏んでしまったがゆえに起きる銃火の洗礼! ごろつきは瞬く間に駆逐されてしまいます。そして訪れる静寂の中、アツシは警察の到来を察知した為、モニカを連れて酒場を去る。
 というのが、まずワンシーン目です。この段階で、この漫画の主人公側の基礎情報がすべて盛り込まれています。
 アツシとモニカが主人公であり、二人は手錠で繋がれていること。
 警官を追っていること。
 アツシはともかく、モニカは銃撃の熟練者であること。
 この基礎情報の凄いところは、全てが何故? という謎を内包していることです。
 何故手錠で繋がれているのか。
 何故警官を追っているのか。
 何故モニカは異常ともいえるくらい銃の扱いに長けているのか。
 それらが、これからのちに解明していったり、謎が深まったりするんですが、とにかくこの謎の提示があまりにも上手い。全く、押し付けることなく、自然に何故? と思わせられるのです。ナレーター的な存在がいないので、ただそうあれかし、とあるだけであります。そして、1話目ではそこの謎は全く語られない。この漫画の話を次へと牽引する、自然な導線となっているのです。
 そうでありつつ、この漫画の魅せ場というのもかっちり決めている辺り、この漫画の底知れなさは相当のものです。そこについては後述するとして、次の、ツーシーン目の話。
 ここでは、アツシたちが追っている警官、エリアスが登場するシーン、という言葉が適切でしょう。そして、その人となりと、悪徳警官、というのから更にもう一足した、危険度を見せるところでもあります。
 導入は知り合いとの電話での会話。嫁さんとの離婚調停に向けた話、というので、まず何故この警官は追われているのだろう。という普通さを見せてきます。
 そして鹿追をしている、と話は進んでいき、そして取り出した狙撃銃で、それを狙い、撃ち、殺す。その一連の流れの間に、鹿、と呼んでいたのが人であることが、撃ち殺されたその姿で明示されます。そして三人いる人を全て射殺する、エリアス。
 しかし、そのことについて全く気負うことはありません。その前の、電話での会話と同じ調子のまま、エリアスは去っていき、シーンは終了します。このことで、このエリアスと言う警官が悪党、それも相当ヤバいやつだと明らかにされるのです。
 これによって、ますますアツシとモニカが何故この警官を追うのか、という部分がクローズアップされます。
 そして、この二対の存在がこの漫画のメインの駆動系であり、ここがどうにかなるのが、この漫画なんだ、という理解にも到達出来ます。この理解させ方の自然さもまた、超絶と言えるでしょう。忍殺の地の分=サンがいたらゴウランガ! からの解説がまろび出るくらいの場面を、さらっと、しかし印象的に魅せてくる訳ですよ。タツジン!
 で、最後の三シーン目は、アツシとモニカが灼熱の荒野を歩いていく、と言うシーン。なんともゆるい場面です。しかし、このゆるさはここが初出ではない、と読んでいると気づきます。
 ワンシーン目のテキーラのくだり。
 ツーシーン目の殺戮の前のどうでもいい会話。
 この漫画にはそのようなゆるい部分が、それをB級テイストと呼ぶなら、そういうものが混在している、というのを、スリーシーン目は明快にしてきます。
 この三つのシーンによって、この漫画の基礎の情報は全て出そろう、という形になっています。とにかく、描き口はひたすら明快。なのに謎はあるし不気味さもあるしゆるさもあるし、でもやっぱり明快。
 この、描き口の洗練をもって、この漫画が伊藤明弘の漫画の一つ究極に達している。そういう判断すら可能なのです。
 これを持って、一話の完璧さが、分かってくるかと思います。

B級ということ。あるいは伊藤明弘と言う狂気

 この漫画において、もっとも笑えた部分はどこか、と言う話をいきなり方向転換からのぶっぱをしますが、それはやはり帯の、それも中折れの中の方の内藤泰弘先生のお言葉でしょう。
 同じ雑誌のメシを食った仲である内藤先生だからこそ、でもわりとあなたもそうですよね? という部分もあるという、玄妙なる伊藤明弘狂人認定がそれです。全文を書き起こしてみましょう。

「いいですか野郎ども。
伊藤明弘は銃の出てくる漫画の中で一番凄い所を
ずーっと描き続けてそれ以外やってこなかった狂人です。
彼の脳内には地獄の釜で煮しめた様な
B級映画が流れています。
彼はそれを漫画にして供給します。
それをまた脳内でB級映画にして再生するのが
我々ボンクラの仕事です。
分かりましたね?分かったらさっさと
作業に取り掛かって下さい。
以上!!」

 この文章の妙味は勿論、狂人内藤泰弘による伊藤明弘狂人認定ですが、それ以外でも伊藤明弘作品のアトモスフィア、もっている雰囲気というものを闊達に、同じボンクラであるがゆえに書き出している点にも注目でしょう。
 片やアニメ化作品のある一線級の狂人内藤泰弘。片やアニメ化? 覚えている人いるの? でちょっと前まで病気で一線から退いていた狂人伊藤明弘。その間柄に何があるか、というのは色々ありそうだけど、でもお前の漫画が好きなんだ! というのを、その実をしっかりと書くことで見せつける内藤先生の好きっぷりは、ちょっと度し難いとまで言えるレベルです。
 おそらく、伊藤明弘認識としては最上級のものが、この文といっても過言ではない。それくらいに、きっちり伊藤明弘を見据えている。本当に度し難いです。
 と言う話はさておき。
 伊藤明弘に狂気があるとするなら、やはり先の文のように銃撃戦に魂を引かれ過ぎている点でありますし、もう一点挙げることを許されるなら、漫画という止まった絵の中に動きを魅せるという常の域を超えた技術にもそう言及できる。そう僕は思っています。
 これはこの前に書いた感想に付随するカタリでも同じことを書いたんですが、それでももう一度書かないと収まりが付かないという気持ちにさせるくらいにはこの漫画が出来過ぎているので、描写し直しになりますが、それでも書きたいと思います。
 銃撃戦に対するセンシティブさはこの『ディオサの首』でも爆裂しています。それもただの銃撃戦ではない、というのが、キャリアを積んで銃撃戦のマエストロとまで呼ばれるまでになっても、銃撃戦に対する意識、センシティブは切り立っているのを感じさせます。
 どこがそうなのか、というと、モニカとアツシが手錠で繋がれている、というこの一点だけで通常の銃撃戦ではお出し出来ない、新たなる殺陣の世界が巻き起こるところです。
 これが、マエストロとまで呼ばれた漫画家だからこそ出来るのだ! と言わんばかりの出力具合なのです。
 この1巻では基本乱戦なので、余計に殺陣の具合が素晴らしく、如何にアツシが死なないように、でもモニカが縦横無尽出来るように、という相反するような要素をカカッといれた見事な動きを魅せます。
 ハンデとしてのアツシをものともしない動きを魅せるモニカのそれは、特A級の漫画家くらいじゃないと出来ない所業。しかし、このB級とも特S級とも言えるこの漫画、『ディオサの首』にそれを過たずぶっこんでくる。その精神性、あるいはセンシティブさこそ、伊藤明弘先生の真骨頂。そう言って差し支えないでしょう。
 にしても、漫画って止まっている絵じゃないですか。それに動きを感じる、というのが伊藤明弘先生の頂の高さです。内藤先生も、その漫画を読んで脳内に出力する、という直喩で表現していますが、もうちょっとかみ砕くと、ある絵Aとある絵Bとある絵Cの三点の間に動きがあるのを脳内で勝手に処理してしまう、というのが伊藤明弘漫画の特徴として挙げられるのです。
 いや、それ普通に漫画なら、と思うんですが、この伊藤明弘漫画の場合、その脳内処理を促すのが全然繋がっていないようなコマな場合もあるのです。でも、それで映像としては繋がる、B級映像作品的な美学で。そういう異形の業前こそ、伊藤明弘先生がアクション漫画家としてトップクラスであることの示唆なのです。
 そういうシークエンスの絵もですが、逆に止め絵として、つまり決めゴマというのもまたかっちり決まるのも、伊藤明弘先生が漫画家として、あるいはもっと言えば銃撃戦漫画家として優れている点でしょう。
 映画などでもそうですが、銃撃戦は基本当たったら死ぬので、安置が無ければ動いている場合が多いものです。つまり、逆に動画などになると動くことが基本になるのですが、優れた銃撃戦映画となると、印象に残るのは、逆説的に止まった絵ではないか、と俺などは思うのです。あるいはスローモーションという手もある。止めに限りなく近い動き。と言えばいいでしょうか。
 止め、ならば漫画は逆に真骨頂ですよ。というのが、伊藤明弘漫画で確認出来る事です。
 アクション漫画として、動きを持っているにもかかわらず、逆に止め出来るからこその一枚も持ってくる。これが、伊藤明弘漫画をアクション漫画として図抜けさせている要因、とも言えるかと思います。つまり、動きも止めも思いのまま! という鎬紅葉めいた両得の出来るからこそ、伊藤明弘先生の漫画は素晴らしいのだということです。
 さておき。
 B級ということ。と先に書いているのに後回しになりましたが、今からカタリます。
 内藤泰弘先生がきっちりと看破していますが、伊藤明弘漫画は基本的にはB級にその基礎を根差しています。脳内にぐろぐろうごめいていると思われるくらいですが、それの出し方については単なる趣味の範囲なのかもしれないし、漫画家としての生存戦略なのかもしれない。その点は伊藤明弘先生にインタヴューしないと分かってこないことなので、そういう手筋の方の情報を待ちたいですが、この『ディオサの首』においては、B級のノリを出しつつも、その要素の部分やシナリオ、つまり創作技術としては特S級とすら言えるものを使っている、というのが拙の持論であります。
 その証左は、基本の筋立ての部分は案外タイトな設計である、という点です。悪徳警官を追う、という部分に対して、色んな付帯物やゆるい時間はあり、そこがB級っぽさをかもしているんですが、逆に言えばかもすところを取り払うと、意外と芯が単純かつ濃密なのです。追う二人と追われる一人。それがよく表わしているのが1話の完成度に寄与している、といったところでしょうか。
 この部分がしっかりしているので、後はそこに対する情報をどう付けたり剥がしたり裏返したり。そういうテクで魅せる。それが『ディオサの首』の構造だ、とすら言えるでしょう。この、シンプルな構造を持って、B級である、とも言えるのですが、その動かし方を持ってA級ともS級いえる、というのが、またしても私の持論であったりします。世界を救う話だけがS級ではない。そういうしゃっつらをすら、この漫画はもっているのでは。そう思うのです。

まとめ。そうねえ。

  • 伊藤明弘先生の漫画がもっと売れて、もっと自分から条件厳しくした超絶のB級アクション漫画描いてくれることを期待する、でいいんじゃないの?
  • そうですね。

 というのは置いておくとしても、この『ディオサの首』は、伊藤明弘先生の至高の作品群の中でもトップクラスになる可能性がある、とだけ提示して、この項を閉じたいと思います。皆、もっと伊藤明弘先生の漫画を読もう!
 とかなんとか。

*1:さっき見たサンデーGXサイトでの某ソーヤ漫画などは、どういう漫画であるか、というのをとりあえず放棄して、ソーヤの漫画である、というのをカカッと魅せる素晴らしい業前で、流石にイダタツヒコ先生はものが違うな、と思わされました。