『GHOST OF TSUSHIMA』の話だと思う俺はどっちでもいいけどー!!

などと、津田健次郎ボイスで叫びつつ。

 では何をするかというと、
wired.jp
 を読んでむむー、となってツイッターでもりもりやってしまったのを、とりあえず自分用にまとめようという意志力で書いていく頂きとなります。ダイレクトテレショップ!(謎の構え)
 とりあえず初期衝動で書いたのを僕たちバチカンカンフージェネレーションです。通称バチカンです。消してー!リライトしてーー!!していきますが、かなりのドライブ感でお送りしますよってからに。カラダニキヲツケテネ!
 それではいってみましょう。

先手、いちゃもん。

 大衆映画が悪い、つまり大体は娯楽映画が、みたいな意味不明な理屈ってたまにありますが、件の文章もその内である、という判断をしてしまいます。著者のサムライイメージが黒澤明製というか、終盤で黒澤映画のあれやこれや、というのでそこからっぽいのですが、でも黒澤映画もいうてエンタメ、娯楽、つまり大衆映画よりの創りの場合が多い、特にサムライが絡むなら、それは尚の事ではなくて? なんですよね。
 ここが割とポイントだと思います。どういうサムライ観なのか、ですね。
 そのサムライ観というが、この文章からだといまいち判然としません。なんとなくでいいなら、文脈としては正々堂々で無敵なサムライとかおっしゃられています。
 暴れん坊将軍みたいな感じか? 違うか?
 違うな! 文脈からすると黒澤映画のサムライアトモスフィアっぽいですし。つまり『用心棒』の三十郎みたいなタイプでしょうか。
 それと比べると、仁さんはちょっとお卑怯な行動が出来ます。上記のサイトにもあるようにスニーキングできるんですよね。でも、これはしょうがないという流れがある。正攻法で勝てない! というのが出発点なんですよね。それで、手を汚していく、と著者が思うことをする。スニーキング要素もそういう流れでやることになる。というか、始まってわりとすぐにスニーキングしないとクリアできないところでその技術のチュートリアルが為されます。というので、このゲームの基礎の理解がややねじれていると感じました。
 卑怯とか思うけど、そういうゲームだからこれ! というか、三十郎も内憂外患として立ち回ってたから、わりと酷いぞ! それはいいのか! という難癖も付けられようものです。そも<時代劇>ならそういう話、手を汚していくというのは結構あるんですが。

黒澤モードに言いたいことは分かる。

 この辺の黒澤明の思想とかいう部分で、綺麗なおサムライというものに心酔がある、というのも分からなくはない。そして分かりもせず、黒澤モードとか言って、製作者絶対許せねえ! 絶許! となるのもまた分かる。私もそのモード名を見た時は絶許! だったのでそっちよりです。でも、このレビューについては、黒澤明金科玉条と化しすぎてもいるかな、とも思います。確かに偉大で作った映画も超面白い。そういう監督ですが、そこの固執せず、もっと広く、<時代劇>にあたってないのかなあ、と邪推してしまいます。
 実際問題、『GHOST OF TSUSHIMA』は黒澤映画リスペクト、という部分は少なくはなかろうですが、それよりもっと広く<時代劇>に対するリスペクトがある作品です。基本となる殺陣としての動きといい、こちらがやられた後のサツガイのされ方といい、逆にこちらがサツガイした時の相手の倒れ方といい、よく見ておるわ。とまだ<時代劇>勢初等の私でも思うくらいの動きをしています。なので、単純に黒澤映画だけのそれより、広く視座がとられている、という印象です。
 とはいえ、結局のところ著者の<時代劇>リテラシーがどんなものか分からないので、その点に対する論評が正確には難しい。ですが、やっぱり視座がちょっと狭いかな? という印象は持ってしまいます。単に黒澤明言いたいだけじゃないかという気さえしています。穿っていますね?

大衆とか娯楽とか高尚とか。

 その辺のことはさておき、大衆映画、という使い方が、ワッザ!? であるなあ、と。色んなところで言われるように、<時代劇>って基本エンタメのものであるはずなのです。その、大衆の、娯楽の作品であるという点が無視されてないか? と酷く気になるのです。ここの大衆、娯楽、と言っておけば、下げられるだろう。あるいは、黒澤明を挙げておけばこっちが上がる、マウント取れる、という感じに見えてしまう。後、文化盗用の3つで何か言っているスクラムだ! って感じにも思えたり。最後はリスペクトが見えない、の方がいいかもですが、ね。
 ここまで完全な私見ですが、この後も私見です。で、言うのですが、エンタメ、つまり娯楽においては、そのタイプの、文化盗用というのはもっとしていいんじゃないか、すらあると思っています。流石にこれをパクってやったぜ! フーハハハハ! とまで言い切ると振る舞いがあれ過ぎますが、今はミームという便利な言葉があります。
 有体に言うと文化遺伝子、ですね。でもこれ、実際の所パクリですよね? インスパイアとかオマージュ、パスティーシュもそうですが、それは結局パクリなんですよ。でも、元とは違う入力と出力で、近いけど違う形になる。
 それが、文化の在り方としてよい、というのをミームって言葉で有耶無耶にしている。そういうものだと思っています。だから、文化盗用ってのは、本当ならありの世界ではないのか、と思うのです。文化とは混淆するものだ、という視点を持つと、そうなります。
 そういう面からすると、『GHOST OF TSUSHIMA』は、日本産ではない。つまり、文化盗用みたいなやつです。
 だがしかし! まるで全然! 製作陣の時代劇リスペクトはそこらの日本産とは程遠いんだよねえ!
 というレベルで、がっつりと<時代劇>をしているのが、『GHOST OF TSUSHIMA』です。そうです、正しく歴史ものをしているんじゃあない。<時代劇>をしているのです。元寇の辺りの<時代劇>、というのがそう数が多くない中で、その先陣たる対馬を舞台に繰り広げられるオープンワールド<時代劇>。こんなもん、作ってくれただけで有難いでしょう! 日本での<時代劇>の衰退っぷりからすれば、ようやくまことの<時代劇>ゲーに巡り合い申した。レベルです。その後で道場は芝居をするところにござらぬムーブまでしてしまうレベルですよ! こっちの文化としては死に体なのを、他が活かしてくれる。それは、あるいは確かに盗用ですが、しかし、命脈を保つ一助になるなら、それすら許容するのが、大衆娯楽、エンタメってもんです。
 その上であえて言うなら、大衆娯楽である、という部分も、黒澤明映画はもっている。あるいは、それこそメインの部分ですらあります。その部分に惹かれて、西部劇に換骨奪胎した作品もある。でも、そこを否定しないからこそ、ミームは拡散して、埋め込まれ、偶に『GHOST OF TSUSHIMA』みたいに発露する時がある。
 文化盗用って言い方は、ある意味では分かります。その文化をスポイルする、という視点は。とはいえ、その文化を適切に機能させて実益を得る、というのは簡単じゃあない。
 そして大きなゲインがないミームは消えていくだけ、というのも切ない。それについては、結局何が大きなゲインを生むのか、というのが分からない以上避けられないことです。
 それに、大きな文化が小さな文化を食う、という以外にも、小さな文化が大きな文化に乗る、という形もあります。ある部族の説話に、今の文化の物を知ったせいでそれを説話に逆輸入する、という話もありますからね。つまり、どうしても、消えていくものはあるのだ、という覚悟が必要なのです。「覚悟」だッ! 「覚悟」が必要なんだッ!
 話が大幅に逸れましたが、つまり、文化盗用というのは実際は是とされるべきなのでは? という話をしました。それを、錦の御旗とは出来ないのではないか、というのが書きたかったですが、長くなったな。

娯楽とか大衆とか高尚とかのエトセトラ

 しかし、あれですね。娯楽じゃダメなの? 大衆文化じゃ駄目なの? というのが、こういう言説が出るとつと思ってしまうことです。というか、あなたの国は大衆文化として映画がデカい規模な国なんじゃないですか? 『アヴェンジャーズ』の国でしょう? エンタメに力がある国じゃないですか。なのに、なんで大衆文化だと揶揄するんですか? という風に。
 そもそも、なんでこういう風に、つまり高尚文化と大衆娯楽の二分律になっちゃうんだろうか。そこはダイレクトに分割できるとこじゃない、スゴイアワイ世界なんだと思うんですけど、考え違いですか? それに最近は大衆娯楽の中に正しさを、みたいな風潮がありますが、それで高尚、てわけでもないだろうと思うんですよね。その要素のある娯楽でしかないんじゃねえかなあ、と。
 個人的な考えですが、と前置きして言いますが、高尚なのって、最初からそうではなかったのではないか? という風に思っています。長い年月で残ったものを高尚としているだけなのでは? と。で、そのラインにあるものを高尚と引き上げているだけなのでは?
 でも、最初に出た時から、それが高尚だったかというのは大変分かりづらい。分からないはないかもだけど、流石に過去の事なので、100%確実なものがある、とは言いづらいだろう。だから、案外下世話な話が残り続けていくうちに高尚とされるようになる、というのもあるのではないか。『源氏物語』とか、その筋な気もします。

ゲームの可能性ってわけよ

 その点、ゲームは厳しい。まだ生まれて60年もない新興文化です。それに、基本的に映画などに比べて表現力の差がありました。それがどんどんと埋まっていく。現在では相当レベルの映像表現を出来るようになった。それで、昔と今では見た目の大差は歴然としています。
 そして、ゲームはそういう既存表現とは違う側面がある。それが、ゲームとしての部分、つまり遊びとしての部分。小説や漫画、映画でもできない、その中に影響を及ぼすことが出来ることは、まだまだ研鑽されないといけないラインです。
 つまり、ゲームは他の媒体に比べて介入という部分があるゆえに、今だ完成形を見せていません。小説や漫画、映画などは、中身の可能性はともかく、媒体としての可能性は大体終わっている。完成している。
 しかし、ゲームはその、媒体としての可能性が、まだ残されている、と思う、分、ある意味では未完成品と言える状態で、それが我々に供出されている、という状態と言っていい。
 なので、まだまだゲームは過去と現在の差が激しい形になっていく、見た目も内容も。つまり、過去のゲームを高尚としても、実質的には現在のゲームの方が優れている、という状況が続いてしまう。高尚の生みようがない。
 そしてだからこそ、媒体としての可能性はほぼ閉じている他のジャンルとのミームの影響に目が行きがちになる。過去のゲームとの比較は完全に意味を為さないがゆえに、他の、ジャンルとして完成したところと比較せざるを得ない、とされている、状況になる。
 そこで、相手は高尚を持って、過去の完成形をもって攻めてくる、という形になる。それがフェアか? というとどうなのかは、ちょっと分からないです。フェアばかりが攻めてくる訳じゃないし。
 でも、だからこそゲームはまだまだ大衆娯楽なんだなあ、という理解が出来る事でもあります。最新の格ゲーであるスト5CEがっても、今でもスト2やスト3が楽しまれるという、高尚とは違う立ち回りがあるのを考えると、そのままの可能性の獣としてある、というのは、意義があるのかなあ、と思ったり。
 だから、『GHOST OF TSUSHIMA』も、大衆文化としてあるゲームなんです。既存の表現の高尚に引き上げていただく必要は、まだないのではないか。なんて勝手なことを言ってしまいたいところです。

まとめ

 話がぐちゃぐちゃだけどまとめましょう。
 とりあえず、高尚文化の側の文句は基本無視していこうと思いました。というより、やっぱりそういうゲームだから、『GHOST OF TSUSHIMA』! でいいんじゃないの?
 そうですね。