音ゲーとはどういうことか、みたいな世界さ。

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承前

 上記リンクの話について、WHATHTAT!? と思ったのでむにむにと思考をまとめる感じで書いていきたいと思います。まとまるかどうか自信がないですが、それだけロートル音ゲーマーとしては言いたいことがあるんですよ。
 それではいってみましょう。

いきなりだけど音ゲーはいつかは廃れると思う。

 という出だしで始めますが、そもそも廃れる速度が遅い早いは本来意味がないんですよ。結局、ファン層が満足するタイムまで生きていれば、問題ないですからね。誰が永遠に生きていて欲しいっつたよ。と赤木さん(『おひっこし』の)顔で、書いた人には言いたいです。
 最低、ファン層が死に絶えるまであれば、何の問題もないですし、そもそも生きているうちに廃れても、そういうものだということです。基本的に、永遠はあり得ないのは誰もが知っていることですから、自分の生きている内の何割かに音ゲーがあった、というだけで、満足、したぜ……。って完全満足鬼柳京介なんですよ。
 他の遊戯より早く廃れたら?
 それがどうしたな訳じゃないですか。
 そこで釣られている私が言うのもなんですが、そこを言い出したら、そもそも生きていることだって無為なんですよ。パンプキンシザーズからの引用ですが!
 あっと言う間に廃れたね、というなら言えばいいんです。そんな瞬間のことに時間使って無為じゃなかった? とも言えるでしょう。でも無為だからこそそこに意味を見出すから、人間は度し難いんです。いい意味でも悪い意味でも、何かを見出すというのがあるのが人間なんですよ。
 というか、根本的にあともうちょっとで終わるから無駄だったね、って言いたいんだと思うんですが(論理の飛躍)、そこが良く分からないというか、終わるからなんだというんですよね。再度言いますが当たり前じゃないかと。
 そりゃあ、長く音ゲーが出来るというのはいいことです。どうせなら、反射神経が終わってもプレイするスキルを身に着ける年代までやっていたいとも思います。でも、その蜜月が永遠であるなんて、何年も人間として生きていたらありえないことくらい分かるだろ? なんですよ。
 だからこそ、我々はゲーマーは黙ってワンコインじゃないのか? 今のこの瞬間を差し出せるんじゃないんのか? おいぃ? となる訳です。

とはいえ、危惧的な部分の気持ちは分かんでもない。

 そこをこの話が主点としてないのは分かってつらつらしました。次に一番の危惧であるお前ら曲分からねえだろ、という増上慢について言いたいことをつらつらします。
 ぶっちゃけ言いますと、ワタクシも長年音ゲーしてきましたが、楽曲の良さというのが分かってないのでは? という気持ちには何度もなりました。この辺は音ゲーマーの通過儀礼というか、やっていれば罹るタイプの病気です。長くやればやる程罹る回数が増えていくやつです。
 なので、言については、つまり難度増しさせやすい曲ばかりになっていくのでは? という地点については分からんでもないのです。
 ただ、現実を見れば、そういう曲じゃないのも沢山あるのが分かるはずでもあるんです。皆が皆、高難度出来るやつだけになっていく、というのは最終地点としてはそうなるかもですが、現状はそうでもない。将来的にはあるかも、です。
 なので、さっきは拙急だったのに今度は迂遠になっている点で、この言説がいかなるものか、というのが分かるのですが、それはさておき、この曲について分からないだろ、という部分に見える増上慢は見逃せません。当然反論はあります。
 それは、曲くらい分かる! というのではなく、分からないからなんだ? です。

音ゲーと曲とプレイ

 そもそも曲について分かる、ということが何もわかってないと思うんですが、それ以上に、音ゲーの曲というのはその曲というのとゲームプレイのお供という二輪で出来ている、と言う事がまだ見いだせていないのです。
 そういう意味ではまだ若いな、とロートルらしい老害感を出してしまいますが、そこは主題ではないので置いておいて、どうして二輪なのか、という話をしましょう。
 というのも音ゲーの曲というのは只聞くものではない、というある意味当然の地点があるからです。音ゲーの解/快とは、どこかのテニスの王子様の台詞を拝借するとリズムに乗るぜ、な訳ですよ。曲と同期していく、そういう楽しさ。曲を聞くだけではなく、プレイすることで一体化する、あるいは曲を支配する、まで言ってもいいでしょう。
 で、単に正確にプレイするだけが音ゲーの正答と見る方もいるでしょうが、そうでもないのです。
 確かに正しくプレイする、というのは一つの解であり、快です。
 しかし、ミスも含めたプレイにも、楽しさがないのか、というと、そうではない。そのプレイ自体に解があり、快である。プレイして、押せなかった悔しさや、上手く押せた楽しさ、というものが、そのプレイにはある。全て完璧に見えるプレイでも、それはある。
 というのは、どんなゲームでも、あるいはスポーツでも芸事でも、やってれば大体分かる話だと思うのですが、書いた人はそうでもないらしいので、世の中の広さを感じます。
 さておき、音ゲーにおいて、曲というのは単に聞く対象ではなく、組み合う相手でもあります。そして、その組み合うレベルは人によりけり。つまり、どの高さを最大高として定めるか、というのがばらけている、とも言えるでしょう。最終的には、そこが全て同じになる、という未来もあるかもしれません。そうなった時は既に人間がいない時代かもしれませんけれども。
 さておき。
 音ゲーは基本タイミングゲーなので、そのプレイに対して自動でもいいのでは? という思いに囚われることもよくあります。そしてここで唐突にAIの話が挿話される点については、やはり見逃せないところです。

出たよ、AIで最適化マジックが!

 AIが分析して曲を作っていく時代、というのは実際あり得る未来ではないか、とは思います。それが早いか遅いかだと、音ゲーが廃れるより早いとは思えないけどね、とはいいたいところです。
 先に腕前のレベルが全て最大値になる時代には人はいないのでは、と提示しましたが「オートプレイなど機械でもできることを人がやる意味があるのか?」という時代は人はいない状態だろう、という推測から物を言っています。
 全て全く同じように出来るなら、それはもう人間はいらないのは間違いないのですが、そうはならないからこそ、人間というのは度し難いというものであると言えるかと思います。
 そもそも件の一文について、やること全て同じプレイが存在するという神の如き立場で発せられているなッ!! という気がします。有体に言って、全く同じプレイというのが、何事も存在しません。それが、タイミングゲーの音ゲーであっても、です。
 話を突然変えて格ゲーの話をしましょうか。格ゲーというのはCPU的な動き、つまりTASと、人間の対戦とでは全く違うと感じるでしょう。
 実際、全く違います。
 TASは使えるものはなんでも使ってCPUの動きを確定させていく、一つの芸術です。
 人間の対戦は相手がどう動くかという読みの部分や精密な動作などの技術が絡まり合う、これも芸術でしょう。
 そういう視点を変えてみれば、音ゲーのそれが常に全く同じ動作で出来ている、というのが一つの芸術であり、そして如何にそこまで積み上げたか、という視点が抜けた発言を、件の文章はしているのでは? と疑いが生まれます。
 そして、その全く同じ動作、というのが全く同じではない、という点も一つ、視点であるかと思います。その時の気持ちやコンディション、あるいは筐体のコンディションも、で、微細にずれがある場合もある。それでも100%同じ動きに見える。そこにどれだけのものが植わっているのか、というある種敬意/経緯が欠けているのです。
 これが、私が上記の文章を見て、一番むぅーっ! と思った地点です。音ゲーなんてタイミング合わせてるだけだろ、っていうむき出しの蔑視に、言っている本人は気づいていないのが、尚の事くるのです。

話は変わるんだが曲の理解って必要か?

 さて、一番書きたいところが書けたので後は余禄ですが、曲について知っている方がいい、というのは分かるのですが、それは、偉い、ではないだろ、ってのがあります。正しいんだろうけど、だからどうしたって感じです。
 どうしても、こういうのは曲について知ってる方が、偉い、ってなりやすくて、しかしその気持ちもわかる程度には、私も音ゲーマーしてきました。先に分かるからなんだ? とは書きましたが、どうせならちゃんと知っておきたい、という気持ちもあったりします。そこに対するリスペクトの無さを感じるというのも分からないことはない。
 でも、そう思う俺偉いのか? とは問いたい所です。知りたい欲求があるのはいいことだけど、それは別によくある気持ちで、偉いことではないのでは? と。
 そこの知識合戦だけが、音ゲーの楽しさじゃないだろ、ってことなのかなあ、とは思うんですが、余禄ゆえまあ、知りたいなら知ればいいじゃん? で適当にお茶を濁しましょう。

まあ予想通りまとまらなかったんですが。

 とりあえず、心に沸いたことをつとつとと書いてきましたが、結論すると、俺が死ぬまでは音ゲーがあってくれたら嬉しいなあ、程度の世界です。まあ、どの道なくならないという事が無いので、そうなら、出来れば長くやりたいなあ、って気持ちしかありません。
 ということで、さぱっと終了。お疲れさんした!