道。あるいはダー様の言葉を愛でる回

ガールズ&パンツァー リボンの武者 15 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

この項について

 以前からずっと自分の中だけの懸案というのがあります。誰しも持っているものでしょうが、私の場合はオタク教養とは、というものです。あんまり競合相手がいないのもあり、参考文献があんまりなくて大変困っているので、オタク教養について詳しい方がいればお教え願いたいと想いっている次第であります。
 というのはさておき。
 タイトルの話をしましょう。道です。ミチではなく、ドウ。道の話です。これも、オタク教養の話とはわりと近接した事案であります。常々、ここも掘らないと、と思っていつつも、近接出会って緊密ではないので、するすると抜け落ちている部分であります。
 それでも偶に考えるのは、オタク教養という部分を考え続ける動機付けである、唐沢俊一鶴岡法斎『ブンカザツロン』の道の話からです。詳細に語るには読み込みが足りていないのですが、それでも受け取ったこととしては、オタクなら道じゃなく術じゃね? というシークエンス、あるいはクエスチョンです。オタク道ではなくオタク術、という意味合いですが、その点から、オタク教養を気にしつつ、道とは? 術とは? ということに思索を向けることがあるのです。
 で、じゃあ道ってどうよ。な訳ですが、この見解について、私の思考とわりと近い指摘がされている漫画があるのです。
 ということで、野上武志ガールズ&パンツァー リボンの武者』15巻でのダー様ことダージリンさんの言葉を引きながら、その点について適当に語って行きたいと思います。
 というのがこの項となります。

ダー様(の言葉)を引きながら

 さておき、リボ武者について知らない人もいるでしょうが、その辺はググれ。と某トン教授顔をして、さぱっと済ませてしまいます。これは私が思考をまとめる為の側面もある項なので、完全に自分が気持ちよくなるように書いていくのです。
 なので、リボ武者知らん、という方にはそうですか。ここ*1でも読んでくれなさい。と素っ気ゼロ戦略を取りたいと思います。ついてこれるやつだけついてこいっ! 精神です。
 前置きが長くなりました。ダー様の道についての話です。やや長だな……?ですが引用します。

軍事技術を習い事化する為の方便 「道」
 しかし道を名乗った瞬間に実戦性は失われ
「文化」…もっとあけすけに言えば「お遊戯」となる……

その先は様式化――様式化(シミュレーション)… 「ごっこ遊び」を突き詰めるのか
 競技(スポーツ)化… 「勝ち負け遊び」を優先するかの選択に迫られる

この矛盾するふたつをなんとか両立させるために――
 「道」という権威のオブラートでくるんでふんぞり返れば

カルト集団○○道の
 できあがり
 
伝統や不文律は権威づけのための道具に過ぎないのだけど――
 これらの始末に負えないところはね…

さらなる権威を求めて自己目的化し
 勝手に増えていくのよ!
野上武志ガールズ&パンツァー リボンの武者』15巻P143~P147)

 本当にやや長だな……?でしたね。しかし、私の考えている道について、わりと手堅くまとまっているので、こうやって引用させていただきました。
 詰まる所、道とはある種権威、これを通せばいい、という地点である、とダー様はいうのです。その後で。でも権威っていいもの! ってなる辺りがダー様の、野上武志版ダー様の味わい深い所だと思います。これは後述します。
 さておき。
 どうしてこのような言葉がダー様から出るか、というのは、めっちゃ混みいった背景があります。それはこの台詞の時の背景に出ている、ダー様の先輩、アールグレイさんが関係しているのですが、このアールグレイさんは吉田創ガールズ&パンツァー プラウダ戦記』にて出てくる、つまりガルパンユニバースのキャラクターなのです。それだけでクロスオーバー! という状況なのですが、ここで面倒なことにリボ武者とプラウダは微妙に世界線が違う、という処理を、プラウダの方にリボ武者のキャラが出た時にされてしまったのです。
 ここにおいて、ガルパン世界の微妙さが浮き上がってくるのですが、それは完全に余談でした。タハハ。
 さておき、そのアールグレイさんというのが、ダー様のいう所の権威にぶん乗りしていたのです。それで圧政をしいていた、とかではなく、目星をつけた相手に上から目線の、そして風変わりな指導をしていただけなのです。しかしそれでもダー様には、あれ訳分からんかったな、という状況であったのが、この台詞の時の振る舞い、その後のローズヒップさんのツッコミも含めて分かってきます。あれが権威に乗ったやつのやり方だ、と言外にやっているのです。*2
 話が混乱してきました。まだ混乱します。
 つまり、あれが、上から今までのやり方を教導するのが、道のやり口だ、という風に私はそこは捉えています。こうあれかし。そう言ってしまった方がよいでしょうか。

どうして道?

 そうあれかし、として形を決めていくのが、道の基本的な作用と言えます。やり方を、きっちりと分かり易い形にして、残していく、という。これは術ではなく道にならないと生きていけなかった、という部分もあります。
 受け売りですが、何故武術が武道になったのか、という点が意外とキーになるようです。戦車術もあったけど、道になったのだろう、という推察のまま喋りますのでご容赦を。
 まず、何故武術が武道になったか、というのは、結局武術では生き残れなかった、ということだという話があります。
 武術自体、昔から連綿とあったのですが、明治に入り、武士階級がなくなる、という状態になります。それ故に、それまで武士階級のステータスだった武術、というものが一気に廃れ始めてしまったのだそうです。武士階級という最大手のパトロンが、士族としては残ったけど、そこにある術としての武というのが消えてしまいかけた。
 そこに生まれたのが、武道、だったというのです。そうです、武道ってそんなに歴史長くないんです。明治大正期くらいから始まったものなのだそうです。
 武士階級のステータスであり、急場にあれば使われるものとして残っていた術としての武は、その最大パトロンがいなくなり、しかしそういう武の形は、色々な作用があるゆえに残ってもいいはずだ、というのから、道へと転じていくのです。
 実際のところ、術は術としての使い道がないと死滅してしまう、というものなのだ、という話にもなります。そこはまあうっちゃって道の話をしましょう。
 道が何故お遊戯みたいな地点に行ってしまうのか、というのは、道として編纂していくうちにその流れで固まっていった、ということの模様です。ダー様の言う、権威を自己目的化する、というのは弊害ともいえるものですが、そういう権威が無ければ、死滅していたのだ、というのもまたあり、大変難儀なところとなっています。
 ある型というのが何故生まれるか、といえば、それは当然それを見て分かり易く評価する為です。ある種の成長の為にする、というが武道の表看板ですから。
 だから道となる時、どうしてもお遊戯化、あるいはゲームかは避けて通れません。明確な確認点が必要になるのです。確かに最初は、そうではないのですが、そういう流れが地道にやっていくと積み重なって、形となり、そして権威になっていく。権威があるから生き残れている、という部分が結構大きく、そしてそれゆえにそれは、権威は肥大化していく、より強固なものになるのです。
 ダー様の言いたいことは、大体そういうことだと思っています。リボ武者の到達点としては、非常に真っ当なんですが、この考え方はプラウダの方にも援用出来たりもします。それはそれで尺があるので別の機会にまわしますが、ある形を如何に崩せるか、というのが、案外いつでも求められていることなんじゃないか、という部分は通奏低音、という感じであると考えています。

結局道ってどうするよ

 さておき。
 話が長くなって混乱があるでしょうが、私も混乱しています。書いているはしから思考がアップデートされると混乱するしかないです。でも基本は道です。道をどうするかです。
 色々考えた結果ですが、やはり道というのはあっても問題ないとは思うんです。一つの価値形態でありますから、あれば便利です。そういう便利さがゆえに生き残っている面もあるからですね。
 しかし、あえて言えば破壊しつくすだけだぁ。されるものでもある、という風に結論してきています。何せ、武道という概念がまだ2世紀程度の格しかない存在なのです。これはもうちょっと打倒されてもいいことではないか。つまり新しい価値観でまた変わっていく中で、道なのか、それとも術なのかが、生き残ればいい。
 あるいは、種を残して去るのすらもありではないか。種が残ったからって継続されるとは限らないのは、武の術がほぼ消えて道になったことからも明らかですが、それでも術は道へと道標を残したとも、種は残ったとも言えます。
 それが正しかったのかは、結局その過程の瞬間にいる私たちには分からないのですが、それでも残しておいて損はないのではないか、とも思います。
 だからと言って、全くそのままコピペでは、時代の動きでやはり飲み込まれるかもしれない。武術が、武士がいなくなって失われかけた、あるいは失われたように、何かあって順応できないガチガチのものが残ってしまっては、やはり途切れてしまう可能性がある。
 だからこそ、道には時折破壊をされるべきタイミングがあるのでは、という思考に到達する訳です。
 壊れ、治り、また壊れることで、冗長性というか、柔軟性というかを手に入れておくべきではないか。イダタツヒコ美女で野獣』でも、自分たちがいた痕跡を、その武術に残してもいいだろう、って話がありましたね。それ知らない人しかいないでしょうが。そういう風に、同じ形を維持するのではなく、融通無碍とする、そういう風にするべきだと、そう思う訳です。
 そういう意味において、ある意味二次創作においてダー様を強キャラにしてしまったリボ武者には、それを言う権利がある、と私は思います。
 ベタ的にもメタ的にも、ダー様の言葉は含蓄が深い。話においての戦車道というものをどうしていくのか、という部分と、原作付き漫画としてのリボ武者をどうしていくのか、という部分と、どちらでも意味合いがとれる、とでも言いましょうか。こ
 ういう、ある型を見直したり破壊したり、というのを、もっとやるべきなんだよ! という言葉ともとれます。
 それでいて、ちゃんとその道があることを否定し過ぎないのもいいです。


 一方で偉そうにふんぞり返るの大好きなの

権威って素敵よ
 一度味わったら病みつきになって手放せなくなる
 (同上:150ぺージ)

 権威は、でもあるといいものだ、という部分もおざなりにはしないのです。実際、この漫画におけるダー様の立ち位置というのがそれを表していて、内実はともかく、あの西住みほを二度倒した、という箔が、ダー様にはあります。
 それ故に権威として立ち回れている、という部分があるのです。リボ武者におけるプロモーターな感じも、その格があるからこそ出来たことでもあります。そりゃあ、権威もいい! って言いますわな。
 つまり、どっちなのよ!? ってなりそうなとこです。権威を否定するのか肯定するのか、という位置ですからね。しかし、そこはダー様。クレーバーです。
 権威はいつか覆る、という仄めかしをしてくるのです。そして、その権威とその覆しの合間のダイナミズムを楽しむ、という方法論を、さらっと提示してきます。これが、ダー様の戦車道、ということなのです。

――つまり
 混沌と秩序どちらがいいということではなく
その間で揺れ動く動的状態(ダイナミズム)を楽しめと?
 (同上:152ページ)

 これはオレンジペコさんの台詞な点はさておき、私個人の憶測とはいえ、道の混沌と秩序、破壊と再生が必要なのだ、という話に、決着するような気がします。
 道があること自体が悪いのではなく、それをただ無造作にすることが、ある種文化にとってよくないことなのだ、と言い換えてもいいでしょうが。
 そういう意味において、ガルパン、というかリボ武者とかプラウダとかはかなりそこに肉薄している作品なんだ、というが分かって、こうやって無駄語りしたのが無駄ではなかった、と勝手な憶測を飛ばせる気がします。これをサイドにさせて問題がないというガルパンの冗長性、あるいは柔軟性は本当に凄いとも言えます。
 結論としては、「ガルパンはいいぞ……」、となっても問題ない気がする。そう書いてこの項を強引に閉じたいと思います。

ちなみにリボ武者15巻の感想はこちら

hanhans.hatenablog.com

*1:『ガールズ&パンツァー リボンの武者』を皆読むといいです。 - オタわむれ 日々是戯言也blog

*2:そこでのローズヒップさんの、道に親でも殺されたんですの? は地味に至言でしたし、ダー様の反応も素晴らしかったです。ほんまあの頃嫌やったんやな。