教養としてのまんがタイムきらら系漫画 第二回

この項について

 きらら漫画の教養はある、これなんだ! という顔をしながら、単にきらら作品に対する偏愛をカタルだけの項。それがここです。わかたか!
 とりあえず、きらら漫画の教養、という話ですが、それ以上のモノがあるかも、というのはわかんね。漫画の教養って面は、出来れば偽者としてやりたいですが、本物は他にいそう。そういうスタンスでやってまります。
 そこまでして何がしたいか?

試したい 試したい 力と知恵を

 『勇者ライディーン』のエンディング曲からの引用ですが、そういうことです。自分がどこまで書けるの挑戦! なんでそんな挑戦をするか、という点については自分でも分かりません。やりたいからや!
 前置きが長くなりました。そろそろいってみましょう。

第二回 ざら漫画とその周辺

 その周辺と言いながら周辺については語らないのを先にお伝えします。その周辺、っていい響きじゃないですか? むやみに使いたくなる何かがあります。という脱線をいきなりかましてみますが、しかしざら先生というのはわりと脱線した漫画家さんではないか、という勝手な思い込みがあります。これが真なのか偽なのか、この項で解き明かせたらと思います。
 いきなりでかめの問題提起から入りましたが、そもそもざら先生の漫画というのが最近ではきららに載っていない、という重大な事実があります。なのでざら先生について知悉していないすくたれものもだいぶいるのではないか、と愚考いたしまして、ここでは軽く、芳文社で出ている3作品について、まずはさらっと紹介していくセクションをご用意します。これで、知らなかったとは言わせない空気を作ってくぞ。と意気込みだけはありますが、そういう項なので、ご了承いただけると助かります。

ふおんコネクト!

ふおんコネクト! 1巻 (まんがタイムKRコミックス)

 ざら先生のきらら初連載作。それが『ふおんコネクト!(以下ふおん!)なのです! などと強調していうことであるというのは論を俟ちません。4巻まで出ています。
 お話としては女子高生の境ふおんさんと三日科交流さんを中心としつつ、女の子がわちゃわちゃする漫画、となっています。ある意味ではきららアーキテクトのにどべったり感はありますが、そう見えてわりと飛ばした一話目で攻めてきます。
 というのもこの漫画、2年生のテスト期間突入から話が始まるのです。ここでふおんさんとあけるさんが既に知り合っており、そこそこ仲は良い、というのを何の余談もなく叩き込んできます。この辺から、既にきららアーキテクトをどう活用してやろうかという香具師の目で、他とは違うのだ! とやってきます。
 とはいえ、お話の方は基本的には先述の通り女の子がわちゃわちゃする漫画です。
 ですが、題名に名があるわりに不明な点が多いというか明らかになるところがあまりないふおんさんとか、題名に名前がないわりには第二の主人公とされて掘り下げがえぐいのレベルのあけるさんとか、義理ながらあけるさんの姉でちっこいオタの合法ロリの夕先生とか、変な人が回りに多過ぎるから自動的に常識人ポジの通果さんとかそのほかいろいろな人がが織りなすお話は、アーキテクチャがちゃんとしればいいんだろあ! ってレベルできらら漫画に揺さぶりをかけてくるものとなっています。
 まだネタに出来ることがあるから、と時間軸が途中で一旦巻き戻る事態もあり、そこが脱線ってんだよ! と言いたくなる作品でもあります。初手からずらしてくるからですよ!?
 脱線としてきららアーキテクトから明らかにでている、というとやはりあけるさんで、この漫画の主人公はあけるさんでしょう。わりと色々ふわふわとした漫画の多い、『はなまるスキップ』みたいにふわふわし過ぎて異常なことになってる漫画もあるきららにおいて、そのギスギスすらある人間関係の進展は特異です。母親との不仲からの若干ながらの和解などはその典型で、中々難しい話をきちんと形にしてくるのは実際強者のそれと言えるでしょう。
 この母娘の関係、というかそもそものあけるさん関連の人間関係がそもそも込み入っています。あけるさんは父の方についていって、三日科姓に、ですが、その生みの母であるノキアさんと父親はまだ友達で、父親の再婚した方にいた通果さんがその流れで妹になり、ついでに姉となっている夕さんは全く血縁ではなくノキアさんの義理の娘で、というのでごちゃごちゃあ! なのです。あとがきで一度しっかり解説されるくらいなので推して知るべし。
 とはいえ、ここでのあけるさんの人間関係ネタがちゃんと一段落はしたというのがあるので、ざら先生には無駄に信頼感があるのも確かです。とにかくここが濃いんだ、って理解で読むのが初手ではいいでしょう。
 それ以外で語るとすると、パロネタが多い点がやはり上げるべき点として存在します。元々話のネタの細やかさと入れ込み具合、有体にいうと密度がえぐい漫画でしたが、その中にあって更に細かくパロネタを仕込んでくるのが特徴的な作品でした。この傾向は、以後の作品ではそこまで、なので色々あったのでしょう。個人的には典型的な雷級ショック演出のとこで必殺パワー! サンダーブレーク! してたのが未だに脳にこびりつくくらいに好きです。某カンフーファイターネタがちまっとあったりするとか、心憎い狭さで最高ですよ?
 脱線しました。次行きましょう。

『しかくいシカク』

しかくいシカク 1巻 (まんがタイムKRコミックス)

 ざら先生のきらら二作目。それが『しかくいシカク』(以下シカク)です。
 話としては、新阪魚さんが渡会十子さんと内富良茜さんと出会ってからの、高校生活、そして写真部の話というものです。3巻で完結ですが、形としては2年になって終わり、ということでふおん!とはだいぶ趣きが違う漫画となっています。そもそも高校受験での出会いから、というので、初手から知り合いだったふおん!とはそりゃあ趣きが違います。
 そういう中できっちりと友情を育みつつ、写真部も勃興させつつ、じっくりと1年をやっていく、という形になってますから、ある意味ではもっと長いスパンを狙っていたのかなあ、という感じもあります。
 とはいえ、1年をじっくりしたのはそれはそれでざら漫画の良さというのがしっかりと出ています。一つのネタに対して時間軸的にしっかり出来るようになった、というのがありまして、それが写真部の成立の為の動きを結構時間をかけてやった点などに表れています。三人娘がカメラをどうするか、というのを二話使ってしっかりやるなど、ふおん!だったら一話で済ませるだろうとこをちゃんと納得のいく形で作り込む様などは、見事とはこれです
 また、写真が主体の話なので、その系統の色々な話が駆使されている点も良い点と言えます。先述のようにカメラをどうするか、というのから撮影しに行ってみたり、カメラで色々する。それがキャラの掘り下げと共にあり、しっかり根底としてあり続けていて、そこを忽せにしない様は見事です。色々な方向のカメラネタがきっちりとしこまれているのです。
 そして、ざら漫画というとキャラクターの妙味が他の漫画より外連味というか、ちょっと噛み応えがあるのですが、シカクのキャラクターもその点に漏れる事はありません。天然的なとこがあるけど黒の牙をもっている魚さんとか、見た目美少女中身おっさんのカメラ大好きっ子十子さんとか、金髪ツインテで帰国子女でツンデレ持ちで身体能力抜群と入れ込みがえぐい茜さんとか、中々キャラクターが濃い。個人的には三人娘では十子さんが特に好きで、基本的に残念な子だけど、カメラへの情熱は本物過ぎてギャグになっている感というのがいいのです。カメラがあると触り、たい! になるとことか超好き。そもそも写真部とか関係なしにカメラを学校に持ち込んでる時点でヤバですけどね? でも、それほどにまで、というのが良い点なんですよ?
 シカクは、人間関係が込み入ってはいません。基本は三人娘中心で、そこに桃先輩や一天先生や茜さんの妹紅衣さんとが傍流としてある、くらいです。偶に恋愛関係ネタのくるぶしっちもいますが、奴はほぼ些末で、やはり三人娘の話、というのが強固に魅せている漫画となっています。このシンプルさはやはりふおん!の反省からでしょうか? ってなります。全体的にふおん!の急所を潰していった漫画、という側面も、しかくにはあるかと思います。やはり、これは結構狙っていたんでしょうかね、アニメ化というのを……。
 また脱線しました。次に行きましょう。

『ふたりでひとりぐらし、』

ふたりでひとりぐらし、 1巻 (まんがタイムKRコミックス)

 ざら先生のきらら三作目。それが『ふたりでひとりぐらし、』(以下ぐらし)です。3冊出ています。
 ぐらしは、先のふおん!やシカクと違い、大学がメインとなるお話です。きらら漫画で大学が、というのは案外多くなく、大体高校か、そうでないなら社会人か、という二極化していました。最近でも大学が舞台、というきらら漫画は少ないので、希少価値だ、と言えば希少価値と言えるでしょう。
 内容の方も、大学なら出来る。大学だから出来る! というネタが豊富に詰め込まれています。大学のシビアな面とかおおらかな面とか、そういう矛盾する側面を臆面もなく。ゼミに受からない! って話や実は他のでは案外やってなかったアルバイトネタとかもやりますし、大人だし恋愛もね。というもあります。
 シカクで少しあっただけの、基本踏み込まれなかった恋愛要素が、そこそこあります。メインキャラに男がいるので、そういうのが少しある訳です。
 しかし、きららで恋愛要素なんて自殺行為ですよ! と言ったのはざら先生のふおん!でなので、どの顔が恋愛要素するんだ? とかねてよりのファンは渋顔してました。ですが、されていくうちに、出来ておる喃、というしたり顔に変わっていきます。アンサーとしては強くないものの、あ、これいいかも、とはなりました。
 さておき、この漫画のメインはオカン体質スグミさんと何故か大学で高校制服を着る女みなもさん。これにみなもさんが住むことになった家に置き去りにされていたニートのハルさんが加わって、三角関係!? って感じでやっていきます。
 とはいえ、恋愛要素、そこまで詰められませんでした。そもそもメインはやはり大学生のスグミさんとみなもさんなので、彼女らと仲間たちと大学いいとこ全部盛りでわちゃわちゃするという形となっていたのです。大学って楽しい! というのが満ち溢れていて、光の大学感が凄い漫画です。
 そしてそんな中で先述のみなもさん、ちょっと変な子だけど、そんな子に恋愛要素出して来たら”どう”よ……? って顔で色々お送りされました。そこは破壊力があります。基本表情の変わらない子なので、それが照れてたりすると、ほほう……でしたよ。
 きららで恋愛要素、自殺行為ではない! そう、自分で蒔いた種を回収する世紀のマッチポンプっぷりが見事な作品とも言えます。まさか自分でマッチポンプするとは思ってなかったんでしょうが。
 さておき、ぐらしの人間関係も、わりと分かり易いというか、特にふおん!ほどの混乱はない感じ。色々と絡み合っていますが、えーと、ナニコレ? というのはない。まあ、ふおん!も、あけるさんの関連が無ければそこまで無茶ではないんですが、そのあけるさんのが無茶だから、というのでどうしても人間関係を注視してしまいます。ざら漫画を読むときの基礎行動ですね。完全に飼いならされている!
 と、脱線しそうなのでここはこれまで。

ざら漫画は脱線している

 さて、ざら先生のきららにおける4コマ漫画をわりと私情含み過ぎな解説を軽く(?)しましたが、これらに共通するのは、やはりコマ当たりの情報量がべらぼうに多い、という点でしょう。後に行くにつれてその情報量の制御が更に積み上がって達人の域になるんですが、最初のふおん!の段階はとにかく詰め込むという意志だ! と言う程の高密度な画と、情報が多い人間関係でわちゃわちゃしております。
 きらら漫画というか、4コマはその形ゆえにコマが小さく、情報力が普通のコマ漫画と比べると少なくなる傾向にあり、前回*1かきふらいけいおん!』などのようにどこまでイン、あるいはアウトして情報を統御するか、というのがかなり考えられている世界です。詰め込むと訳が分からなくなりやすいのです。
 だがしかし! まるで全然! ざら先生には程遠いんだよねえ!
 と変な台詞が出るくらい、ざら先生は詰め込みます。詰め込むのです。一話完結をしながら、尺の問題など考えずあえて詰め込む、アニメ『てーきゅう』が早口ですることで短い尺に1回分を詰め込むという手法を出してきたのと同じタイプで、中々ヤバ。それがゆえにわりを食って言葉が微妙に足らない時もある。しかしだからこそ漫画、というものが立ち上がってくる。それがざら漫画の基礎と言えるのです。
 それで、きららが基本的に敷いているルートから、足はついてるけどこれ脱線しているね、という評が、おそらくざら漫画には正当なものではないか。一番しっかり足かけてたのがシカクな時点で色々とお察しの世界です。あくまで求める漫画の像が他のきらら漫画と違う、と言いましょうか。
 しかし、だからこそざら漫画は漫画というものの限界点をあぶり出す位置にいるのです。

きらら4コマの宿痾

 いきなり話がぐちゃっとなりますが、そのつもりで読んでください。わりと適当に脳に浮かんだことを書きます。
 きらら4コマ漫画、というのは案外起きていることを言葉でしてしまうとこがあります。これは先に書きましたが情報量の問題があります。4コマは基本狭いし小さいので、その中で絵と言葉とふきだしを、というのでどうしてもコマにおける情報、というのが少なくなりがちです。
 そこをどうするか、というのはきららのみならず他の4コマ漫画でも常に意識させられる話です。その中でも、きららはもう一段上の事象、つまり女の子は! 可愛いですよ! という部分がどうしても訴求されているので、女の子が可愛ければ情報量が少なくても問題ないさ、となりがちです。
 そんな中にあって、そこに異を唱える、って程でもないですが、でも脱線した漫画というのはあるもので、それがざら漫画である、というのはそう無茶ではないと思います。
 このコマ内の情報力の限界を、続きもの、ストーリーを持って繋げ続けて増やす、というパターンならきゆづきさとこ棺担ぎのクロ。~懐中旅話~』(まんがタイムきらら)や、伊藤いづも『まちカドまぞく』(まんがタイムきららキャラット)などの例はあります。長い話に紐付ければ、情報量を小出しにすることも楽ちんですし、ちょっとした情報を伏線として仕込んでおくという手管も出来ます。
 しかし、ただの日常の話の一話完結タイプでは、やはりざら漫画に比するものはない。それくらい、日常系(古語!)というのは薄くいこうとする傾向があるのです。
 この辺が何故なのか、というのがよく分からんのですが、前回言及した『けいおん!』や、今後やる機会があると思う蒼樹うめひだまりスケッチ』などが、わりと情報量少なめなタイプ。フォロワーが言葉少なくやってしまうのは理の当然とも言えます。
 ただ上げた二作は情報量が少ないには少ないですが、それゆえにタイトなところがある。『けいおん!』も『ひだまりスケッチ』、どちらも全体のテンポの良さがグンバツなんですが、そこはかなり著者の力量が出てるので、中々真似できない、というのもあります。だから、中身すかーなきららゲストが結構出てくる、と見ています。
 話が脱線しました。ざら漫画の話です。

ざら漫画の射程

 ざら漫画とは! と前にもしたような問いかけを今更ぶっこみますが、やはり説破! 詰め込み! というのが一つの解かと思います。本当に詰め込んでくるのがざら漫画、と言って過言はないです。
 しかし、先に記したように、4コマとは大層小さいものです。しかも定型。そこに絵と言葉と吹き出しを入れなければいけません。なので、ざら漫画は自動的に絵の比重が高くなっていきます。言葉も吹き出しは、絵のどの隙間にいれてやろうか、どれだけ言葉で表そうか。そういう世界になってきます。後代にいくにしたがって、その部分はビビッドに明確化していきます。
 しかし、よくよく考えると、漫画の利点とは何か、という話へと向かうことが出来ます。その点に対する解は筆者としては、文字と絵とで情報を出す、というものだと思っています。もうちょっと詳しくすると話の脱線がおかしくなりすぎるので、単に文字と絵での情報の出力が、漫画の根底だと勝手に設定します。
 翻ってきらら4コマを考えるに、絵の部分が女の子、というくくりにされがちではないか、女の子が出ていれば問題ない、という部分が強い傾向にある。それがきらら系ではあります。
 しかし、そこに対してざら漫画は足は引っかかってるけど脱線しています。絵のパラメーターの数値が、女の子以外にもがっつりと振られているのです。ほぼ一話完結の話において、この詰め込みというのが特異な部分であるのは論を俟ちません。なんでこんなに詰め込むん? って言ってしまうくらいです。
 絵もそうですが、キャラの人間関係にもあり、特にふおん!ではあけるさん関係の人間関係が超ごちゃついていました。何度か読んだ後の自分ではするっと分かるんですが、これ前提ちゃんとわかってないと訳わかめだったよな……? その辺は後に反省としてのシカクとぐらしでの人間関係に繋がるわけです。流石にあれはきららとして限界点だったのか、あるいは大きな脱線だったのか。そういう訳でシカクもぐらしも人間関係がそれなりに簡単になった、とは言えるでしょう。それでも、結構テクニカルなことしているので、人間関係の詰め込み具合もざら漫画の特徴として今更あげられるでしょう。
 そういう、きららアーキテクトとは別のラインに脱線しつつも、きらら漫画であった。それがざら漫画なのです。

そもそも漫画

 さておき、この詰め込みが一つ面白い励起をしている部分があります。それは、コマの強度というものです。
 なんだコマの強度。ですが、とりあえず漫画として成り立つコマであるのが高強度、と勝手に設定します。いいね? アッハイ。
 で、きらら4コマは基本コマの強度、情報量が少ないことが多い。コマの強度が弱いんですね。一コマが漫画として成立するかギリギリな感じなのです。
 上手い人は、その辺の扱いに長じ、弱いコマでも積み重ねて一つの強度に立ち至る訳ですが、ざら漫画はそこに詰め込み! してただの一コマでも強度をやたら上げてくるのです。
 一つのコマが強いから、全部合わせれば超強い、とはいかない、噛み応えも度を超すと噛めなくてストレスになる、ってとこもあるんですが、それでも強度を上げ漫画としてなり立たせる、という方向に張りが振り切れているというのがざら漫画になるのだ、と考えています。
 そして、そもそもの漫画というのは文字と絵のマリアージュであり、それが一つ一つのコマに表現を宿していくことで生まれるダイナミックが持ち味な訳でありますから、つまりコマ強度が高いというのは漫画として純度が高い、という言い方も可能です。そして、その部分にざら漫画はしっかり過ぎるくらい当てはまる。そう考えると、詰め込みで漫画としての強度を高める、というのはある意味で漫画の一つの解かもしれません。
 ただし、これは痛し痒しと言った所があります。というのも、そのガチガチの密度はアニメ化に向いていないのかもしれない、という疑念が浮かぶからです。

詰め込まない方がアニメ化しやすいのか問題

 その傑作ぶりからすれば大した問題ではないですが、ざら先生の漫画はアニメ化には恵まれませんでした。ふおん!がドラマCD化した以外のメディアミックスはなし。何故だ!(剣崎声で)
 今でこそきらら4コマのアニメ化でも、作品の流れに忠実なものです。その最大の結実は取捨選択とオリジナルのぶっこみのセンスが桁違いに高かったQuro『恋する小惑星』のアニメなのは論を俟ちませんが、ふおん!の頃のきらら4コマのアニメ化は、原作のネタを使いながらもわりと独自のものを入れてくるものでした。
 その最たるのが先にも出たかきふらいけいおん!』です。一期も二期もオリジナル展開全開でお送りされた訳ですが、これは『けいおん!』の漫画の方に隙間が沢山あったからです。詰め込んでいなかったから、と言った方がこの項の趣旨と合致するでしょうか。色々と入れる要素があるからこそ、やれた、という時代だったのです。
 その点において、ふおん!は難しいかったのでは、と邪推しています。詰め込み過ぎなので、それに沿ってやると尺に収まらないだろう、と類推出来ます。人間関係が徐々に組み上がっていくから変に中抜きも出来ないガチのガチガチだし、そもそも一話目から話が途中から感がある。終わり方もどこで? という問題がある。ほとほと難しいな?
 邪推はいくらでもできますが、最終的な判断はどうだったのかは霧の中。というか今からアニメ化しないかな? までありますが、それは余談ですね。マジで今でもいけると思うだけどなあ。

まとめ。

 話がとっ散らかりそうなので、ここで軽くまとめて終わりとしたいと思います。
 ざら漫画は基本的に、詰め込みで出来ていて、それは絵としても台詞としても人間関係としても、とにかく詰め込む漫画です。そしてその正当なる系譜、とにかく詰め込む後継者がいないがゆえに、唯一無二の存在感を誇っている。そういう漫画がざら漫画なのです。
 現在では古本でも中々手に入らない時代になっているのですが、kindleがある! ので、気になった方は軽々に買っちゃえばいいんじゃないかなー! と突如大声を出しつつ、この項を終えたいと思います。