格ゲーネタに見る四人の漫画家の違いのアトモスフィア

ゲーミングお嬢様 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
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対ありでした。 ~お嬢さまは格闘ゲームなんてしない~ 2 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
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東京トイボクシーズ 3巻: バンチコミックス
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ハイスコアガール DASH 1巻 (デジタル版ビッグガンガンコミックス)
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この項について

 最近、女の子が格ゲーする漫画が流行っているじゃないですか。局地的に。局地的に!
 その局地から見る、それらの違い、というのを詳らかにすることによって、なんか言った気になろう。そういうのがこの項となります。主にうめ『東京トイボクシーズ』の話がしたいですが、この前置きを書いている段階では全くの未知数の項となっており、どう着地するか、というのはさっぱりわかりません。上記の四つの漫画についての言及に成るのか、変に偏った注力するのか、全く違う形になるのか。手探りなのです!
 ということで、それではいってみましょう。

格ゲーの虚実についてのひとくさり

 『ゲーミングお嬢様』(以後ゲー嬢)、『対ありでした。~お嬢様は格闘ゲームなんてしない~』(以後対あり)、『東京トイボクシーズ』(以後トイボク)、『ハイスコアガールダッシュ』(以後スコダ)。この四つの漫画について記述していくわけですが、最初に見ておくべきは、その格ゲーの虚実です。というとかっこいいですが、単にやっている格ゲーが実際にあるかないかの話です。
 これについては、ゲー嬢とスコダが実在のゲームで許可を取っている。対ありとトイボクが架空の格ゲー、となっています。特にスコダはその前作『ハイスコアガール』で許可なしにやったせいでお叱りを受けて押切先生がなんで俺はこんなに間が悪い……! ってなってたので、今回は当然ちゃんと許可を取っている状態です。そこに対して更にプロゲーマーに対する許可も取っているらしいゲー嬢は異彩を放っています。このタイプ殆どなかった中で同時多発的に出てきた4種の漫画の中で最もセンシティブなところ、所謂ナマモノに対しても許可を取っているというのが若干亜空というか、どこ攻める気なんだよ感があります。
 話がずれました。ゲームの虚実です。
 その二作は、原作の動きと言う点にちゃんと寄せていて、伊達に許可は取っていない、と言う感じを魅せつけます。
 対して、トイボクと対ありは、架空のゲームを題材にしています。対ありはストリートファイターシリーズに寄せた架空ゲーで、トイボクは色々と混在した感じとなっているのが特徴です。この、漫画内ゲームの二作は、作者の格ゲーに対する解像度が如実に出ている部分ともなっています。
 トイボクの方は、漫画が格ゲーというよりEスポーツの側面を強くだしている部分があるゆえなのか、わりとその格ゲーに対する描写の質量が高くはありません。一応、リーチの話や軸ズレバグ的な部分の話はあるものの、そのゲームの面白さ、というのには重きを置かれていない感があります。
 対して、対ありはストシリーズに寄せているとはいえ、格ゲーの解像度が半端ではなく高いです。中足ヒット確認からの中必殺技に割り込まれる! からのヒット確認ネタや、ゲージが貯まるまで特定行動は出来ないから割り切って詰める、そして荒らすなど、しっかりしているがゆえにその格ゲーが実在するのでは? くらいの解像度で描かれます。
 原作ありの方も、動きの魅せ方というのがこなれています。スコダでのフォボス(『ヴァンパイアハンター』の)のジャンプ中キック牽制とかが特に顕著です。ジャンプ中キック牽制という、ここの理路が長いのですが、あえて砕かず書きますと、フォボスはジャンプ中の軌道操作がかなり特殊で、前ジャンプ中キックを出してすぐ後ろに下がれるのです。普通のキャラでは、そのまま前に行ってしまうところを、安全に戻ることが出来る。これゆえに、横にリーチの長いジャンプ中キックの牽制がかなり有効なキャラだったのです。その部分を、きっちりやり込んだがゆえに出しているのが、スコダの濃い所です。
 対するゲー嬢は、これもきっちり格ゲーの理路が乗った漫画となっています。中足一択読みスクリューから始まり、この間合いなら立ち中キックの間合いですわよ! からのツンドラストーム読み一点とか、前ダッシュ4回からの瞬獄殺とか、題材格ゲー『ストリートファイターⅴ』の熱いところ、細かいところをきっちりと漫画として仕立てています。あんまりにガチな為に精緻と言う言葉が一番似合うくらいです。基本バカ漫画なのに!
 と言う感じで、作中格ゲーへの熱量の違い、あるいは格ゲーそのものに対する熱量に、描写の面でも違いがあるのが、分かるかと思います。

漫画の主題としての軸

 4つの漫画の、対象格ゲーに対する違いは、そのままその漫画の主題の差として表れている、現れていると言えます。どれも格ゲーをマジでやる、と言う部分に対するアプローチが違うとも言えます。
 4つの中で一番頭がおかしいのはゲー嬢で、格ゲーネタ漫画としてやる為にプロゲーマーをキャラに換骨堕胎する準備はオーケーしている段階で既にこいつ、ヤバイ! なのは間違いありません。
 しかし、格ゲーに対する真摯具合は、もしかすると4つの漫画の中で飛び抜けているかもしれません。格ゲーネタをする、ということになるなら当然ガチでやらなくてはならない、という覚悟が完了しているのです。
 元々が格ゲーする人をお嬢様にしたら面白いんじゃないかという狂気の発想からスタートしているくせに、格ゲーの面に対して変な茶化しは一切入りません。格ゲーマー生態漫画の呈もありつつ、格ゲー漫画としても切り立っている。この面をもって、やはり頭がおかしい。なのです。
 格ゲーに対する熱量で言うと、対ありもかなりのものがあります。そもそもの架空の格ゲーに対するデティールがしっかりし過ぎなのです。
 手本にストシリーズのそれがあるとはいえ、このキャラには無敵対空はゲージを使わないと無いとか、ゲージを使って弾抜けする理路とか、中必殺技ヒット確認超技の話とか、振り向き対空の為にきっちり前歩きしないといけないのとか、適当に、片手間に考えて出来る内容ではありません。ガチで、下敷きがあるにしてもほぼ1から考えている、本気のそれなのです。
 個人的には起き上がりのタイミングをずらせることからパナし向きのゲームだ、っていう話が出た時が一番笑いました。架空の格ゲーをしっかりと考えている! 格ゲーマーが一度は夢想するそれを、ガチすぎる形で! 本当に凄いです。
 スコダは、それら格ゲーをガチで描くという軸に対して、少しずれた所を攻めています。
 前作『ハイスコアガール』のもう一人のヒロインだった日高さんが、中学教師となって色々鬱屈している、ところに再び格ゲーとの邂逅をする、という話で、話の主軸は日高さんにあり、格ゲーはその鬱屈を変えるカンフル剤の役割を果たしています。
 元々『ハイスコアガール』が格ゲーなどの古ゲーの思い出、郷愁感、あるある感などが構成要素だったように、そこに格ゲーがあった。というお話で、格ゲーにのみ注力した漫画ではないのです。でも、格ゲーに対する部分はちゃんと真摯。そこがこの漫画に対する妙味として立ち上がっているのです。
 この流れで、トイボクはどうしても弱いと言ってしまいたいところがあります。どうにも解像度が低い。そしてそのゲームが面白いのか? という魅せ方だったりします。他の三作品が格ゲーとしての動きの理路がちゃんとした描写をしているのに対して、トイボクのそれはかなりおざなりに見えるのです。
 格ゲーをマジでやる、という部分が、格ゲーよりもEスポーツとしての側面に寄っているのが要因なのかも、とは思うものの、上記三作が熱量の軸線が違うように感じます。
 漫画としての話への訴求に軸が寄っている、という、普通ならその方が正しいし、求められるべきなんですが、同時代にその面より格ゲー漫画としての軸、という方向に振ったピーキーな漫画が揃っているという事実が、トイボクの軸線についてちょっと待って欲しい、となってしまうのかもしれません。トイボクの方が長期的に見て正しいはずなのに、なんだか間違っているというか、軸がずれているように見えてしまう、という同時代マジックが発動している、というのが私見です。

『東京トイボクシーズ』の熱量

 とはいえ、トイボクが悪い漫画だと断罪したいわけではないのです。そんな資格はありませんし。むしろいい面も多いです。Eスポーツゆえにスポーツものとして見れば、お互いの負けられない理由が積み重なって試合に挑む、というのや、そこを姦計を用いて崩そうとする動きとかも、成程、とはなるんです。ちゃんとスポーツ対戦物として仕上がっているのです。
 しかし、どうしてこうなんか足りない気にさせられるのか、というのがやはり個人的な問いとして常にポップアップしてくるのです。そこに対する答えは、朧気ですがやはり熱量の差だということに帰結するかと思います。
 ゲー嬢は元はバカ漫画だったのを、ちゃんと格ゲーをするという軸線に置くことで、そこに真摯に向かう形で独特の熱量を持つに至りました。最初からバカ漫画だったのを、軸線をずらしていくことでガチ格ゲー漫画として立ち上がるようにした、その発案者の姿勢には頭が下がります。ちょっと正気じゃない点も含めて。
 対ありは格ゲーに対する理路が尋常じゃなく格ゲーマーのそれです。作者のガチ具合が、その架空格ゲーの作り込みからも見えてくるし、格ゲーに対する登場人物の相対の仕方によっても見えてくる。所謂ガチ勢じゃないと浮かんでこないシチュエーションとか展開とかに、こいつは出来る! と思わされる。
 スコダはまだ1巻のみなのでこれから格ゲーがどう絡んでくるか、と言う部分はありつつも、その格ゲーに対する真摯さについては、流石にやり込んだ者の気勢は違うな、というものがあります。1巻のほんのちょっとの出番だった格ゲーですが、それでもそこに対しては裏切らないきちんとしたものがある。
 上記三つの作品が、度合いや方向性は違うものの、格ゲーに対するガチについてはしっかりした基盤を持っている、と言う中で、トイボクはそこがどうか? という疑問が出てくる訳です。
 確かに、トイボクの格ゲーに対する理路は正確です。こうなればこういう作戦になるのは当然、という形で仕上げています。しかし、そこからもう一歩、理路を外した道へは、踏み出していないという印象があるのです。
 完全に印象論なんですが、読んでいてなんだか、もう一歩出て来いよ、という気持ちが出るのです。他の三つの作品が格ゲーと言う題材に真摯というか過ぎるというかが、トイボクに対して熱量薄く見える要因ではある。トイボクの方向性は間違ってはいない。だけど、もうちょっと弾けようぜ! ってなるのです。そこが、熱量によるものだ。そう思っているのです。ここが、ガチ勢との差、と見るならそうなのかもしれない、と思うところです。

〆の時間だからなんか書いとけ

 この項を書くに至った経緯は、トイボクがなんか足りない、という自分の感覚によるものでした。漫画としては正道、王道なんだけど、それじゃあちょっと足りない。同時代に、比較対象がいるし、それはそれで自分の正道を歩いている。そして偶に弾けている。それは熱意があり過ぎるせいでだろう。
 では、トイボクの熱意がないのか? なんですが、そこはちゃんと理路としてはある。ただ、理路としてであり、荒らしのような強引な暴力的な凶悪なそれはない。言ってしまえば収まりが良過ぎる。中平正彦先生のスト3漫画で言うところの、「型どおりじゃのお、百手先まで読めるわい」なのです。理路がしっかりし過ぎている。トイボクを描くことにおいて、ちゃんとしたものを描くことへ注力し過ぎなのでは? と勝手なことを思ったりするのです。それは普通の場合は正しいんですが、格ゲー物は今クレイジーの時代なのです。だから、弾けてほしい。
 でも、弾けようとする、型から外そうとすると『大東京トイボックス』みたく、結局ゲーム開発の話が有耶無耶になってしまったようになるのではとも思うので、ここは痛し痒しとすべきなのかもしれません。でも、もうちょっと上振れ期待出来る漫画だと思うんですよ、トイボク。でなければこんな長文書きません。それくらい、期待がある漫画なんです。
 理路の鮮明さとか、お互いの意地とか、ちゃんと積み立ててる、ほか三作よりある意味ちゃんとしている漫画なので、その点だけは、若干の酷評めいた言説に付随して、言い置いておきたいところです。
 ということで、自分でも手探りの内容ながら、なんとかまとめたことにして、この項を終えたいと思います。