格ゲーロートルがどうしても考えてしまう初心者についてのなんとやら の2

この項について

 前提として、こちらの文章、
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 を下敷き、もっといえばだしにして、考えたことをつらつらと書いていく項、その二回目となります。
 一回目はこちら。
格ゲーロートルがどうしても考えてしまう初心者についてのなんとやら の1 - オタわむれ 日々是戯言也blog
 大体、キャラ数が多いのが問題を根深くしている、という類の話をしています。していないかもしれません。どっちもどっちも。どっちもどっちも!!
 さておき、第二回目もそれではいってみましょう。

格ゲーを修めるという概念のポップアップ

スト5に限ったことじゃないんだけど

 前回からとはまた違う話から突入します。連想をそのまま記載するとまでは言わないものの、ある程度適当に想起を形にする形ですので。
 さておき、個人的に、格ゲーの基礎というのはどこかで学ばないといけない、という考えがあります。上掲の文の、キャンセルのタイミングがキャラに寄って違う、という話が、個人的に異があるとは、一回目でちらっとしました。
 ぶっちゃけて言うと、そんなに大幅にキャンセルのタイミングの違う技あったっけ? という、個人的な感触の面で、それは違うんじゃない? という思いが出たのです。
 とはいえ、この辺は肌感覚の問題なので、上掲の文の著者さんがそう感じたのなら、そういう感じ方もあるだろう、とは思うんです。
 しかし、自分の肌感覚では全然他のゲームでも自分のキャンセル感覚は通用するので、ここに何かしらの、白竜的に言うと「大きなシノギの匂いがするな!」なものがある気がします。
 基本脱線する項なので、少し深堀しましょう。
 格ゲーの基礎、特に2Dタイプの肝の一つに、キャンセルはあります。ここでキャンセルとはなんぞや? となる方はいないと思うので解説しないで進みますが、とにかくキャンセルの感覚、というのは割とゲームによるところがあります。
 ですが、格ゲーロートルとしては、ここで変な引っ掛かりを覚える格ゲー、というのは最近とんとお見受けしない、というのがまずあります。現在は『ギルティギアストライヴ』、GGSTの子な私ですが、スト5の禄を食んでいた時期も当然あります。
 その二作は、当然ゲームとして毛色が違います。どちらかというとGGSTが攻め重視、スト5が守り重視となる感じでしょうか。
 なので、キャンセルの受付時間というのも、この二者ではかなり違っています。端的に言うなら、GGSTの方がわりと幅が広い。スト5が極端に短いということもないのですが、相対的に見るとキャンセル出来るタイミング、というのはスト5の方が狭いとなります。
 なので、そういう、GGSTのようにキャンセルの間隔が広いのからすると、スト5はキャンセルの難度がある、という言い方が出来る。つまり、スト5はキャラによっての差が、キャンセルに関して大きくある、というのは分からないでもないのです。

個人差? ゲーム差?

 ただ、そうは言っても自分の中では、スト5のキャンセルで困ったこと、特にキャラが変わってキャンセルのタイミングが、というのが無かったのです。若干シビアに感じる時が無いと言えば嘘になりますが、それでも特段に違う、と感じたことがない。
 その点で、上掲の文の著者さんとは感覚の違いがある、ということから、そこの辺に違和感を持った訳です。
 これについて、またぞろ掘ってみると、格ゲーを色々していた経験が、対象ゲームのキャンセル感覚というのに適応するようになっている、という考えが浮かびます。
 詰まる所、キャンセルという行為にゲーム差はあるにしても、経験によってそれを微差にすることが出来ているのではないか、と推察出来るのです。
 なので、かなり参考にならないんですが、スト5も言う程キャラによってキャンセルタイミングが違いまくる、ということはないんじゃないか、と思っているのです。
 この辺は格ゲーの教養というのがあるのかもしれません。
 キャンセルは、大体攻撃を当てた後のフレームにコマンド入力で成立します。つまり、攻撃を当てる前にしてもあまり意味がない。意味があるキャラもいるけど、基本としては当ててから必殺技コマンド成立なのです。
 そして、どんなキャンセルも攻撃が当たってから、という感覚、教養、ベース、それらがとにかく身についていれば、キャラによるキャンセルタイミングの差も、微差に出来るのではないか、とまで勝手な判断が連なっていきます。
 なので、そういう感覚、教養を持っているから、格ゲーのキャンセルで困ることが少なく、またあってもすぐ適応できるようになっている、という結論に到達します。基礎があれば、応用で困らないということの典型みたいなやつではないか、とまで思うところであります。

格ゲー修練論

 となると、格ゲーは、修練する必要があります。
 と書くと、いきなりきな臭いアトモスフィアが醸成されますが、だがちょっと待って欲しい。
 格ゲーを楽しむ為には、やはりデカいハードルがあるんです。
 ゲームによって高低差はあるにせよ、他のゲームよりは格段に高いハードルが、格ゲーにはあります。
 というか、そもそも初心者の方が最初やり始めていきなり勝てるという可能性はほぼない。0といっても過言ではないくらいです。
 同レベル帯で一緒にやる相手がいる、というのであれば勝てるというのはあるかもしれませんが、少しでも腕前に差があれば、まず歯が立たないのが基本なのです。
 この部分に対して、つまり勝てないというので、もういいよ! あたし競馬止める! という風になるのをどう減らすか、というムーブメントが必要な訳ですが、そこで格ゲー修養論が出てくる訳です。

修養してまで、ではあるんだが

 とはいえ、格ゲーをわざわざ修養する、というのがまず頭お菓子好きかい? ポイントであります。そこまでする? という疑問が、当然湧いてくるでしょう。誰だってそうする。俺だってそうする。
 しかし、格ゲーを修養する形をある程度制定しておけば、あるいはそれに乗って、格ゲーを粘り強くする人が出てくるかもしれない。格ゲーとは修養するものだ、という前提があれば、あるいは。格ゲーの難しさを、そういうものだと理解していれば、あるいは。
 とはいえ、そこまでして格ゲーがしたいという段階で既に粘り強くする人なので、当然離籍率が減る、という視座を持ってこられると、そうでもあるがあ! とサコミズ王顔になります。正論ですわね。ぐうの音もでませんわ。夜道に気を(略)。
 ですが、そういうモノがある、というのを置いてあれば、よりそういう人をあぶり出せるのではないか、という謎の考えも浮かびます。そういうのがあるから駄目、という人もいるでしょうが、そういうのもあるのか。という興味を持つ人も、同時にいると思うのです。

入る人を増やす施策には向かない考え

 現状において、格ゲー修養論は全くの机上の空論です。愚者の戯言です。もっと言えば馬鹿です。
 とはいえ、馬鹿は馬鹿なりに、そういうとっかかり、というのがまず格ゲーを言う時に足りない部類の話だと思っています。もうちょい、楽しいが、覚悟がいるという話はしていいのではないか。メリットばかり話してもよくねーであります。
 つまり、あなた、覚悟してきた人ですよね? という問いかけが、格ゲーには必要なのではないか。
 ハードルの高さがありますが、それを覚悟すれば違う。覚悟した者は幸福であるってプッチ神父が言ってた。つまり、そういうのがあるのを、ある程度知っているからこそ、やるという事に対して覚悟が持てる。その覚悟を持った者こそ幸福なんだ。そういう類の話です。
 『ジョジョの奇妙な冒険』においてもトップクラスで電波の入っているボス格の言葉を使っている段階で、この話が無茶なのですが、その辺は承知の上です。無理無茶無謀は酢を飲まないという言葉があるようでないように、カンフル剤というのはある程度無茶が必要なのです。
 さておき、格ゲーの修養という概念が、人を増やすか、という点については、初っ端からですが一考の価値はあると思う、というオブラートが必要です。
 修練出来る! という言い方のが、人を引き寄せる可能性がないとはいいませんが、ゲームで修養? というので疑問符がガンガンにおっ立つのは間違いないです。私も自分からこの発案してなかったらミルコ・クロコップ顔で「お前は何を言っているんだ?」になっています。
 でも、現行において格ゲーの難しさ、修養の必要性があまり語られないのはアンフェアであるという気もするのです。面白いだけではない、というのは、やはりきちんと語る必要があるはずなのです。

とはいえ、他の競技を考えると

 ついでに言えば、ある種競技において、その面白さは難しさと裏表、という部分は少なからずあります。これを越えれば、面白さが見える、という段階が。
 それが、格ゲーにもある、という言い方なら、あるいはいいのでは? まで考えます。
 他競技と言うのから考えれば、触っていて楽しいという段階はどの競技にもあるでしょう。しかし、そこから奥に向かうとすれば、当然触っていて楽しいだけでは済まなくなる。
 野球でもキャッチボールのような手習いな段階で楽しいのと、ボールを捕って、投げて、打って、走ってとでは、話が違ってくる。そういう部分に踏み込む時、修養する時こそ、その競技に触れているという事が出来る。
 それが、格ゲーでも同じだ、と言えるのではないか。
 そういう理路を持ってくれば、格ゲー修養論というのも成り立たなくはない、と愚考するのです。

格ゲーの修養とは何か

 全ては! 我が! 戯言なり! と戯言性を強く喚起しつつ、格ゲーの修養とは何か、という大脱線に突入します。
 格ゲー知識、経験の骨子を考えるという方がいいでしょうか。
 この場合の格ゲー知識とは基本実技の情報であって、ジャーゴンの理解ではない、と言いたい所ですが、結構そういうジャーゴンが格ゲー知識にはついて回る、というか専門用語多過ぎるので、ジャーゴンの理解はわりかし重要なところがあります。
 あるいは、ここを紐解いて平易にする、という練をするのも必要かもですが、そのジャーゴンだからこそ伝わるアトモスフィアがあるしリレイションシップがあるし、というので中々難しいラインの話かと思います。
 格ゲー経験は、一体何が求められるか、というのもそれなりに難問です。先述のキャンセルの感覚とか、技の当て勘、技の使用法への気づきや間合い管理などがそうなるでしょうが、これを系統立ってやる、というのは中々出来る事ではない気もします。
 ですが、この経験の部分こそ、格ゲーの積み重ねとしてある部分です。これがあるから、慣れない格ゲーでも理解が早くなる。全くの無手よりは、勝率も上がる。他に応用が効くことこそ、格ゲー経験として重用される、と考えるべきでしょう。
 これが、簡単に手に入るか、というと俺にだって、分からないことくらい、ある……。とキバヤシ諦念になります。私になんで格ゲー経験があるの? って言われても格ゲーやってたから、しか答えようがない。ここの、やっていた、という風にするのではなく、もうちょいやり様はないか、というのを詰めたいところです。
 そういうのを上手く積み重ねれば、格ゲーの修養という芽もあるかもしれない。そう思う吉宗であった。

手引き

 と、終わらせるみたいな書き方でしたが、それはスルーして、修養! といきなりせずに手引き、という施策を考えるのも一つそんなんアリカと思うようになってまいりました。
 修養は修養としてありきで、でもそこへまず手で引く感じ。追走する感じのネタがあれば、それを出すのも良いのでは? というのですね。完全に脳内感覚フジヤマボルケイノすると何を書くか分かったもんじゃないですが、とりあえず、の情報というのは初手では必要な気がしてまいりました。
 しかし、知識の手引きはいいにしても、経験の手引きってどういうのだ? ガイドか? となるので、この辺りの知識が少ないのを実感してしまいます。
 なんにせよ、格ゲーガチ初心者に対して、まずこう触れていこう、みたいな手引きというのがあると、やはり入門としては違うのかな、という気がします。いきなり修養というのが理想的ですが、何事も手引きというのは必要だ、とどんどん志向が変転し始めております。現代においては、それは動画がするものなのか、という気もしますが、この辺はピンキリ世界なのが難点です。個人の趣味の範囲なので、どうしてもそうなろうという理解ですね。

流転して動画の話

 格ゲーの手引きとして、動画というのは大変いい手段ではあります。動いてるの見てないと分かんねー。そういう世界だからです。
 文字情報だとどうしてもニュアンスの問題とか、そもそも動きが想像できないとかあるので、手引きとしては動画というのが方向性としては非常にベネ。格ゲーは動いてなんぼだ、というのは間違いないことでしょう。
 だがしかし! まるで全然! 動画のクオリティについては程遠いんだよねえ!!
 何が程遠いのか分かりませんが、自分も動画作ってますけど、これが高クオリティで作れても特に飯の種にならない、というのが中々に辛い。そも、動画作るのが単なる趣味の範囲じゃないか。なので、金になるならんは全く気にしてないですが、だから当然クオリティが上がらないので、そう考えるとここは痛し痒しといったところかもしれません。
 初級者の手引きになるような動画、となると、更に飯の種になり得ない、と感覚が告げてきます。
 これには公共事業として、格ゲーの手引き、修養をやるべきなのでは!? という錯乱もでますが、それだと大@naniせんせと同じスタンスになるので、大の大人だから、やれんだろお!! になってしまいます。こういう何たる狂人の戯言! は実際言い出すと実際狂人なので、出来ればやらん方がいいんですが、それはさておきましょう。

そもそも成り立つ手引き動画

 格ゲー初心者に対する手引き動画、というのが公共事業ものではないか、という話になってまいりました。
 そこまでリーチの長い話だったのかと正直混乱していますが、混乱ついでに成り立つ手引き動画とは、というネタに突入しましょう。
 とはいっても、そう無茶にムズい話だと思います。
 そもそも論で、どの格ゲーをまず初手でさせるか、という問題が出てきます。古すぎてはあまり意味がないけど、新しいのでこれが長く遊ばれる、というのが分かるかと言うと難があります。
 この点に関しては、新しい方がいい、とは思うんですが、ゲームとしてのプレイ蓄積が少ないとかなり難しい面、つまり他のゲームにも通用するベーシックなテクニックがそのゲームで強いのかがすぐには分からん、あるいはより進めば分かっていたことが裏返ることがある、というので、新しければいい、という訳でもない場合もあるかと思います。
 とはいっても、そういうのでも扱える技術、経験を得るのとっかかりとして、手引きはある訳ですし、最新のゲームが出来ないなら何の意味がある、という側面もあるので、いや、これどうするんだ? という妙齢のコンフュージョナー状態になってしまいました。
 そも、初心者が知って得した! ってなる情報発信というのが公式にはやられないけど、公式がしたらそれはそれで場が荒れるという、微妙に難儀な状況にあるとも言えます。
 こう遊んでほしい、はあるんだろうけど、そこは適宜応答にやらせろや! ってとこですね。公式が出したから正しい、みたいな雰囲気になるのは、実際嫌な話であります。だからこそ、公式もそういうのはやらない、という線引きがあるのだと思います。
 この部分で、ファンメイドの手引き動画、というのが一応の理想ではあるんですが、今度は公式ではないのが逆に良くない面として作用する、という部分もあります。適当こくでねえ! みたいなやつですね。個人、あるいは非公式だから、逆に疑問符が持たれるという。
 あれ? 手引き動画成り立たない?

格ゲー修養論の精神性

 さておき、格ゲー修養論についてもう少しだけ脱線します。
 格ゲー修養、というのにどういう精神性だ? ってなるかと思います。ゲームで修養!? ですが、なに、やろうと思えば大体の事は修養だと強弁することはできるのです。
 強弁すれば、格ゲーではかなりの精神修養が出来ます。
 具体的には努力の価値を覚えるでしょう。
 どういうことだってばよ……! ですが、まあ、格ゲーやってて努力しないで勝つことが出来ない、と分かるというのは大きい所だと思うんですよ。努力しないで勝てるようになりたい! ってなる場合もあるので一概には言えないというオブラートが必要ですが、基本努力の価値があるのが、格ゲーというやつです。
 身体的スペックとかがある部類ではありますが、現行ではわりとロートルにはいる格ゲーマーの人でも全然一線に入れる程なので、スペックはあるのは当然いいが、無くても何とかなる部分がある。
 つまり努力のし甲斐がある、という部分はあるかと思います。
 それに、どの競技でも言えますが、努力した部分しか、実際に出せない。だからその努力が間違えている可能性というのがありますが、合っていれば、ちゃんと出せる事が多い。そういう部分を、格ゲー修養論は強く指摘していきたい。
 そう思う吉宗であった。

いやちゃんと精神性の話しろ

 『暴れん坊将軍』のエンディングの曲が流れそうな雰囲気でしたが、どういう精神性で格ゲーの修養なんて言うんだ、というのは、やっぱり格ゲーがずっとあってくれなさい。そういう心根から出るモノなのです。
 なにも格ゲーの大ブームがいきなり巻き起こって欲しいとまでは言わない。欲しい欲しくないで言ったら1000%欲しい。通常の10倍の欲しがりですが、そこまで行けば格ゲーは安泰という思惑だからです。
 格ゲーが縮減していくのは、その在り方からするとある意味当然とみる部分もあります。ですが、最低限自分が生きている内は生き残ってもらわんと! という気持ちもあるのです。ある意味では格ゲーの粘着質なヌチャァ系ファンの刹那の猛りなんですが、それくらいなんとかなるポテンシャルは、実際あるのではないか? そう思って、今回も長々と脈絡のない文章を書いてしまった訳であります。
 出来れば、プレイも長くしたい。そう思う吉宗であった。
 よしオチた! 終わった! という感じに今回は締めさせていただきます。