格ゲーの苦労は買ってでもせよと言いますが
言いますが、……言わない? まあ言うという前提で話を進めます。
ということで、何故格ゲーの苦労は買ってでもしないといけないのか、というのにあまり明確な答えがないなあ、と思ってキーボード取ってみた次第。考えていきましょう。
強いから使う?
格ゲーでは強いキャラに人気が集まる傾向があります。新規の方も玄人の方も、そういうのにわらわらします。格ゲー初心者がそうするのも、勝てるキャラ使うという一点では正しい選択でしょう。
ただ、その格ゲーの強いキャラだけが使いたい、というのは中々迷走しがちです。
そういうのでは、ぱっと出た新キャラがぱっと見では強いように見えて、でもやりこむと中々楽ではない、とかがよくあります。
最近だとスト6の豪鬼にわーっと行ってわーっと去る、みたいなことになりました。今はベガかな?
スト6では強キャラは沢山いて、人による部分も多い。
なので、どのキャラが強いのか、というのがまだ流動的で何かの拍子で環境がガラッと変わる可能性すらある。
なので、強いから、でやるとその流動性に翻弄される羽目になる可能性もある。ここもここで苦労ではあります。でも、主体性のない苦労、客体性の苦労です。
苦労の主体性
買ってでも苦労しろ、というのは言い換えると主体的に苦労しろ。苦労の理由を自ずからにしろ。そういうことになります。
格ゲーにおいて、苦労は必要か、というのはそもそもちょっと話がずれているというか、好きなキャラをやりこむ苦労もあるし、勝てるキャラに乗り換え続ける苦労もある。弱キャラを使う苦労もあるし、強キャラを使う苦労もある。やるからには何かしらの苦労がある。
だから苦労は必要かというその問いは根本的には意味がない。絶対あるし、必ず通るから。
さておき。
まずもって、キャラが好きでやり込みのは主体的な苦労で、強キャラだから乗り換えるは客体的な苦労です。
主体的な苦労なら、自分でやろうとしたから、という言い訳が手に入ります。
客体的な苦労なら、皆んなが言ってたから、という言い訳が手に入ります。
どっちの言い訳の方が、長続きするだろうか?
ここに明白な答えはないですけども。
サーフェイス(上っ面)
苦労をしろ、というのは遠回りしろ、に聞こえやすいし実際遠回りな場合もある。でも、ゲームを理解するなら遠回りが最短である場合もある。
こういうと、強キャラ使うのはダメ! になりそうですが、でも、そっちは別に普通の道だとは思います。
そこでキャラを習熟して、ゲームの深淵に至るのなら問題もない行動です。スト6ならJPいきなり使っても何の問題もない。結構特殊なキャラですから、他のキャラに応用が効きづらい面はありますが、そういうキャラだからこそいきなりやるのはむしろいい。変なベーシックさを覚える前にJP味を覚えるべきですし。
ただ強キャラの上っ面だけでやって、コロッコロ変えていくのはゲームの理解に貢献するか? という疑念はあります。
上っ面だけやってるから、結局ゲームのことがわからないまま、強キャラというだけで乗り換えていくのはよくないのでは? ゲーム理解が進まないのでは? となるのです。
とはいえ、色々なキャラをしてゲーム内理解に至る、というのもある話なので、一概に悪いと言いにくい。でも、そこに至るまでゲームへの興味が続くのか? はあります。
強いと言われてやったらそうでもない。
強いと言われてやったらそうでもない。
などと繰り返して、楽しいと思えるのか? そういう上っ面を楽しい思える人いそうではあるけど、私は、興味なくしてしまうでしょう。だから、あんまよい手ではないかと勝手に思います。
どう格ゲーしても苦労はある
何事もですが、楽々と苦労もなく、というのはそうない。対人が絡む格ゲーとかは、どうしても一種の苦労に行き当たります。
前述通り、好きなキャラをやりこむ苦労も、強キャラに乗り換える苦労もあります。
主体的か客体的か、という差はありますが、どのみち苦労ではある。
その苦労を、どう楽しむか。結局そこに行き着きます。
ここは主体的にやった方が面白い、と言えると思います。誰かの意見だけでふらふらするのが楽しいか? というと微妙なとこですし。
結論として、どうあっても苦労はするので、主体的に苦労して楽しむ、が一番精神衛生上よいのでは? どうせなら自分から行くのが、良いの方向性だろう、とかなんとか思った次第です。
だから、格ゲーの苦労は買ってでもした方が、結局は楽しい。そういうことかと思うのでした。
終わり!