さらにぼんやり考える

あえていいますが、「撲殺天使ドクロちゃん」はこのまま爆進することが一番である。そしてできればそのままフェードアウトするのが至上であると。
いいんですよ、ワンパターンでも。「ドクロちゃん」には変化など、違う展開など必要ないのです、全くちっともさっぱりこれっぽっちもリトル・ア・リトル必要ないのです。
むしろ見たいのですか、違うノリの「ドクロちゃん」が。
それなら別に「ドクロちゃん」を買って読む必要などないんですよ。違う本を読めばいい。
あのノリをただただ見たいからこそ読むのであり、読んでいる瞬間の脳のふたが開いた感覚を味わいたいから読むのであり、読後に「いつも通りだったな」と確認したいから読むのです。
その書を読みたいがために読む。まさしく読書の理想の一つです。
それしかなくて、大いに結構なのです。
いいんですよ、これのみで消え去っても。(著者本人は嫌でしょうが)
あえて「こんな本」といいますが、こんな本が二十年後ぐらいまで語り継がれると思いますか。私はカケラも思いません。
しかし、それでいいのです。
それはつまり、今この時にしか味わえないという事。こんな玄妙なものを味わえるのが今しかないという事。編集さんによる「おかゆイジリ」も含めれば、まさしく今しか、この本の味を楽しめる時はないと断言できます。それを肝に銘じて存分に楽しみ、そしてフェードアウトしていくのを見守る。
そういう付き合い方をする作品が出てきた事は、それはそれでいいことなのです。
え〜、ふと気付きましたが、何を憤慨気味に語ってるんでしょうかね、私。
なんだか、“残るものこそ至上”というのに妙な反発をおぼえて、「ドクロちゃん」を引き合いに出して書いてみたのですけれども。あー、なんかイライラしてたから、その反動かも。
う〜む。書いている途中になんか思いついたんですけれど。
ドクロちゃん」を楽しむ人たちと「ファウスト」誌を求める人たちとは、層としては重なり合うんでしょうかね?
あー、つまり。
ライトノベル」をそれとして楽しむ層と、「ライトノベル」に失われた“教養”*1を求める層というのかな〜、まあそういう層とに接点はありや無しや、ってことかな?
うぁやばいな、この話は考えると長くなりそうだ。

*1:知的スノッブとしてのもの