うつーじん。そう言ってへべれけを思い出せる人が何人いるだろうか。

 低調。定期のお出かけ日なので出かける。時間つぶしによった図書館で「スティーブンキングの小説作法」を借りる。前に読んでいたけれど、前回は全部読む時間が無く、今回は残った部分を時間が無かったので、結局借りてみる事にする。
 前回まで読んでみた所の感想は「スティーブンキングはわりとテンションが高いタイプの物書き」という事と、「私は今の今までスティーブンキングがまだご生存である事を知らなかった」という事か。私には小説家というのは「なんか死んでる」という観念があるらしく、昔、夢枕獏センセはもう死んでいると思っていた。最近テレビで見て、「あっ、生きてるんだ」と知りました。どんな粗忽者だ。
 佐々木少年真月譚 月姫」の3巻を流し流し読んでみる。しえる先輩……。やっぱりあれか。薬師寺天膳と同じタイプは、かませ犬が常道なのか。なのか。なのなのなのか。やっぱりあれか。あのタイプは強いんじゃなくて、鬱陶しいのか。なのか。
 低調。空気がどうのこうのという話が出回ってますが、当方、ブレンパワードの登場人物並にそういうのがわからない*1ので、どうしたもんかなぁ。同じように自戒と自罰と自壊を込めて、次の言葉を引用します。

 物事をカテゴライズ(ジャンル化とも言うか)することで対象を理解した気になるのは馬鹿のすることだというのは、ずっと昔から言われてきたことだよなー、とか。
その中でももっとも馬鹿なのは、既存のカテゴリに対し、自分のカテゴリ名を与えて「既存を自分のものにしようとする」カテゴライズだよなー、とか。
川上稔さん 不定期俺日記ver2:2006年8月17日付け)

 何故そんなことをするのかと言うと、理由はいくつも出てくるものではありますが、「既存を自分のものとする」ことで得られる効果や権益を、やはり自分のものとしたいからだよなー、とか。
(同上)

 めんどいですがフォローすると、「ジャンル」あるいは「くくり」というのは、全く不要、というわけではありませんよ。なぜなら「ジャンル」という形を作る、というのは自分と相手の理解の為に必要だからです。お互いに共通してイメージできる形、「ジャンル」というのがあれば、“ある物”をそれで言い表す事で、「あれがこうなってて、これがそうなってて」という説明を抜かして、「ジャンル」の事を知っている他人に伝えられるのですから。
 しかし。「ジャンルを作る」というのは、「ジャンルにくくられない部分を切り捨てる」という行為を含んでいるものでもあります。
 そうする時、人は「綺麗に言えた」と感じ入ります。綺麗に言い切れた、つまり綺麗に余分な部分を切り取れた、そう感じ入ります。
 それはまあ当然の心理なので、別にいいんですが、問題なのは、それが「己の独断である存在の形を決めた事」であるのに、その綺麗さに酔って、他の考え方、または、それを入れると綺麗にならなくなる物が出てきた時、それをシャットアウトしてしまいたくなる事が往々にしてある、という事実です。そうすると確かに「ジャンル」の精度は上がるかもしれませんが、元々の、「理解の為」という部分がないがしろにされてしまうわけです。これが、大概の「ジャンル論争」の基本骨子となるわけで云々。
 …。
 えー、なんだかまとまらなくなってきたので、一言でまとめると。
「ジャンルを決めるというのは、色々周りから言われて当然の行為なんだ」
「他の可能性がある、という当たり前の事を、常に頭に入れておいてほしい」
 ということでしょうか。

*1:「空気が読めない」というより「自分の空気でしか話せない」といった方が良いような