胡散臭い仮説が脳の帯域を占有しつづけていて、いいかげん鬱陶しいので書いて発散したいと思います。だれか、引き継いで考えてくれる事希望。
それでは、いってみましょう。
- 野村美月と童話と
- 「ハルヒ」と「先輩とぼく」と「プロット・ディレクター」の相関関係
- ライトノベルから時代へのエクスキューズを見るって言うのは、時代小説から歴史小説の区分が生まれたのに似ているような?
- 「文学」からではなく「通俗小説」からみるようになったのは、なんでだろうか?
- 「せかいけい」と「世間」の近さ
後半、ライトノベル関係ないな〜。「ポストモダン」とか特に。
この辺は調べ事から発生してくる“たわごと”なんですよ。 いろいろと調べていくと、どうしても端々で「あの本」が出てくるので自然と考えてしまうことになるのですよ。
で、「外産の理論を、己の感覚とつき合わせないで言うからへんなのか?」とか、「もともと“大きな物語”というものが日本にはなかったんじゃないか?」とか、「いや、『ポストモダン』の出た所とは、違う形の“大きな物語"なんかな?」とか、ぐだぐだと素人考えが続いてしまうんですが、個人的にはもう面倒なので、この辺が分かる人にやってもらいたいです。っていっても、かなり異端くさい考えだからなぁ。他に考えてくれる人とかいなさそうだ。
*1:アダムスキー+逆さパンターにはやられた。