危険性と自己 責任

ぐだりと。
中島義道のおっさんの思考を借りながらつらつらと。
未来は予め定める事はできない。 なぜなら“未来”は“今ここ”にはないからである。 あくまで「推測できる範囲」という形でしか“未来”は存在し得ない。 そしてそれはあくまで己の思考上の産物でしかなくて、“今ここ”にはない。 脳みそのどこを探しても、世界中のどこを探しても、“未来”は存在していない。
そうなると「危険性」というものも、思考上の産物に過ぎない。 なぜならそれは“今ここ”にない“未来”への危惧だからである。 たとえば機械に腕を巻き込まれる「危険性」はあくまでも思考過程の産物であり、実際に腕を巻き込まれてはいないという事である。 巻き込まれたときはすでに「危険性」ではなく「危機」だ。*1
そうなると「危険性」とは「危機への感受性」=「危機感」と考えられる。 そしてそれは個人の資質に深く関わってくるともいえよう。
ここに「自己 責任」というものの通常の使われ方としての欠点がある。 それは己の考える「危機感」と世間一般が考える「危険性」が必ずしも一致するとは限らないという事である。 つまり「紛争地域に行ってつかまる危険性」と「リゾートで災害に遭遇する危険性」とに、同じくらいの「危機感」しか抱けない場合もありうるという事である。 「リゾートで災害に遭遇する危険性」を「戦争中の国に行く危険性」と同じと考える人もいれば、「高層ビルに飛行機が突っ込んでくる危険性」を「豆腐の角で頭をうって死ぬの危険性」位に考える人もいるということである。
さてさて、そうなるとここで疑問として「人為性」というものが出てくると思う。 それは人が何かを行う事で“未来”が変わり得るという考え方である。 いや信仰といってもいい。 なぜならば、そうならなかったから、“過去”にそういう事が起こった、と刻まれるのである。
「人為性」という信仰は“過去”に起こった事への「もしも」をから生まれる。 「もしもあの時、あの場所にいなければ」、「もしもその時、それをしておけば」「もしもあの時、無理にでもあらがっていたら」「もしもあの時、あの人がいなかったら」。
しかし、ここで注意しなくてはならないのは「あの時」と考えている時点で、既に“今ここ”ではないということである。 過ぎ去っているがゆえに「あの時」と思い浮かべられる。 しかし、“過去”ではなく“今ここ”であった時に「あれ」は、「それ」は、なされなかったのである。 ゆえに結果として「あの時」という形で思い浮かべるのである。 つまり「人為性」とは“過去”にしか存在し得ないのである。
しかし、「人為性」によって“未来”が変わり得るという信仰は依然としてある。 なぜか。
それは“今ここ”に「人為性」があるという錯覚からであり、“過去”から“今ここ”へと「人為性」によって変遷したように“今ここ”から“未来”へを「人為性」によって変化しうるという錯覚があるからである。
なぜ錯覚かといえば最初に述べたように「“未来”は存在しない」からである。 あくまで「ある人が推測できる可能性」の世界でしかない。 あくまで「その時」は「あの時」として、つまり上でも言ったように“過去”として語られない限り、「“未来”だったモノ」として出ない限り、我々の中には存在し得ないのである。 以上から「人為性」は“過去”にしか存在しない、「“過去”にあった可能性の一部」という結論に達する事ができる。
はてさて、そう考えると「危険性」が「危機」となるのは確かに「自己 責任」といえよう。 なぜなら「その時、その人には運がなかった」からである。 「その時、そこにいた」という不幸としては同じモノだからである。 そこには「人災」も「天災」もない。 ただ不幸なだけである。
ゆえに「自己 責任」論とは「その人の運の無さを、その人に『お前に運が無いのが悪い!』と糾弾する」というモノでしかない。
さて、ここで疑問がまた出てくる。
「運が無いというのは糾弾されるような事なのか?」
これは、「自己 責任」論と付く物をみればよく分かる。 「自分達(その人以外)に迷惑がかかる場合」にのみ悪いのだ。 なんとも分かりやすいものである。 その不幸はいつか我々にも降りかかるというのに。

参考文献 中島義道「時間を哲学する 過去はどこへ行ったのか?」(講談社現代新書

*1:ここでどうして「危険性」が「危機」へと移り変わるのかという疑問も沸き立つが、長くなりそうなので、またいずれ