んで、上の表をみながらぼーん。小説ってシンプルなんだろうなあ、と思ったけれど、シンプルだった。それ以上に色々考えるのでは、というのもあるし感覚的になにか沸き立ってくる、というのもあるんだけれど、それは他のものでも可能といえば可能だろう。
 シンプルな分、補う部分が多いので「自分の読んだ時」というのが他のメディアより濃密になるというのは、あるかもしれない。自分にびんびん来るけれど、それはお前だけなんじゃね? というか。
 じゃあ補う部分が少ない方が「自分の感」を強くするか、つーとそうでもないような。ゲームの場合は触というか操作部分が人間の腕に任されるゆえに、〝常にどんな条件下でも同じ行動”というのはまずありえない。そして常に自分の操作で生み出された映像&音楽が広がる、という事になる。そこが「自分の感」が生み出される辺りなのかもしれず。
 更に言うとノベルゲーは逆に小説に近くなる。操作が一定だから誰でも同じ条件で同じ話が流れる。絵や音がある分、読む時の読み方というのは制限される(方向付けされる)ので、読み手が読ませたい方向には誘導しやすいが、それでも補う部分は「自分の読み」で補うから、「自分が読んだ」という形で「自分の感」が出る、と。
 んで、それは元が誘導しやすいので、世の中の評にすりあわせやすい=みんな同じように考えた、というのが共有感をも生んだ、とか。
 わけわからん。
 しかし、文字を読む、というのをなにかしら五感以外の感覚で言えないものか。ててとーに文章想起としようか。それを上の表にあわせるとどうなるか。