オタクと教養とオタ教養についてぐるぐると、の参

初めに

 オタクと教養とオタ教養についてぐるぐると思考が空転するので、とりあえず吐きだしてから何を見ればいいかを確認する作業過程なので、他の人が読んで面白いという物ではあんまりないですよ。とミサ○は宣言します。ミ○カじゃないですけど宣言します。まだ三回目ですがそろそろ思考が元の所へとどうめぐりめぐらみしそうです。そうなったらどうするかですが、それはやけのやっぱちです。やってやるです! の精神です。意味がわかりませんね?

参「必ず修めると書いて必修」

 前回がにわかはどうしても起きる現象で、それがネットではより鮮明になりやすい、人によって知識レイヤーが分かれてるのに、言論の場面は同じ場所であるのが理由で、そのにわかにどう対処するかが<オタ教養>というもののありがたみの存在する場所ではないか、という話をした記憶があります。違うかもしれんがとにかくそういう呈で話を進めます。
 <オタ教養>がにわかに対するに重要だと書いて、では実際ににわかに会う時どうするか、というのをまず考えてみる。ある程度パターンは決まっていて、それは嘲笑するか、教導するか、の大体二者択一ではないかと思う。大体と書いたのは、それ以外に他の場面へ、その人の適した場面へ誘導するという方向性もあるからですが、それが上手くいけば嘲笑も教導もしなくて済むけど、そうならないから嘲笑か教導かになるのである点を踏まえると、大体というくくりも当然であろうと思う。
 さておき。
 手段の一つである嘲笑は、わりと簡単である。にわか相手を恥じ入らせ、萎縮させる方向に持っていくのは、知識があれば楽に出来る事であるからだ。この方法で入ってこれる人を削っていく、嘲笑されて離れていかない人だけが残っていく形の厳選の仕方をしていけば、少数精鋭も夢ではない。そういうのは上に認められたいと思っているから、頭も垂れ下がっていて、余計に都合がいい。
 さておき。
 もう一つの手段、教導は、大変な道である。にわかを鍛えていくというのだからその道の険しさは嘲笑の比ではないのは、ちょっと考えただけでも、おごり高ぶっているのをなだめすかして、とか無理そうだと思えるくらいに厳しい。とはいえ、嘲笑されても勝手に上がってくるのだけ待つよりは建設的とも言える。それに自分の敷きたい道を進める、自分の趣味域を推進するにも都合がいい。
 そう、どちらも都合がいいのだ。この点は重要じゃないかと。どうしてそうなるか、というのは単純に、一回目に置いておいた必修という語、必修とする物というのが、どちらにもあるからではないかと、考える。つまり、嘲笑の基礎になる知識と、教導する為の知識、どちらも必修科目という思想の上にあるから、最終的ににわかを自分に対して都合よくしようとしてしまうのではないか、と必修を学んでない相手に、必修を突き付けるのはどちらも同じだ。
 しかし、その必修は一体誰が保障してくれるんだね?
 それは必修という<自分>だ。
 嘲笑も教導も、人の為ならず。<自分>の為なのでは、という風に考えてみたり。この辺が<教養>あるいは延長線上の<オタ教養>に対してどうにも鼻持ちならない感じを個人的に受けてしまう源泉だろう。
 とはいえ、それではどうしたらいいのか、というのが問題となる。二大巨頭、嘲笑と教導をしない訳にはいかない。と考えるのがそもそもおかしいのか、それともそこは相手に次回もキリコと地獄に付きあってもらう級の忍耐を強いるのか。ここで話が崩れるが、個人的には、相手の<教養>を無視する、という方向性がありえるのではないかと思っている。そこは、<教養>は確かに重要ですよね。でも、俺はこれを選びます。そういう方向性を求めるべきではないのか。
 あるいは、<オタク>は一般的な<教養>から視点を変えた考え方だったのではないか。見る所をあえてここに据える、その据えた地点から他の物を見る。そういうものだったのではないか。そういう事も考えついてみたりします。詰まる所、オタク物件をどう見るかすら、個々人の裁量が大きい時代になっている、というべきで、それ故に知らない事も出てくるし、にわかになる分野も出てくるし、そしてそれがレイヤーが分かれていないのと相まって、にわか問題が深く根ざしているのかもしれない、と思いますが卿らはどうか。どうかじゃない、と書いて今回は終了。またインプット必要になってきたかな?