オタクと教養とオタ教養についてぐるぐると、の四

初めに

 8歳と9歳と10歳と、12歳と13歳のときも僕はずっと、待っていた!! オタ教養についてだろう! カードもだ!
 という事で、オタ教養というのはどういうものだろうか、あるいはオタクと教養の関係とは、とかそういう事を考えたのをとりあえずアウトプットしないと先に進めないアトモスフィアなので、出します。文が錯乱してる感じなのは仕様ですのでご了承ください。というか、悪文にして自分以外省みないように、という一期一会感に、酔いな。←「俺様の美技に、酔いな」の時の跡部顔で

四「<自分>」

 <教養>という物の知識は何のためにあるか、というのと、<オタ教養>という物の知識は何のためにあるか、というのは案外軌を一にするのではないか、と唐突に勘が働きました。どちらも、一つの芯を求める物ではないか。その芯というのは、なんだろう。あるいは、それは<自分>という物なのではないか。そういう思考をしていくのが今回だ。
 さておき。
 <オタ教養>の知識というのは、昔と今では意味合いが異なってきている言葉である。意味合いというよりは、比重というべきだろうか。昔の<おたく>というと知識は当然深くないと名乗れないというアトモスフィアがあったように言われている。それに比べると、今の<オタク>の知識というのは、ともよく言われる。ただこの点は<おたく>と<オタク>とでは情報の重みが違っている、あるいは情報を持っていないと、という強迫観念的なものの傾向が違うというのもあると思う。知識が無いと、つまり濃くないと、<おたく>というまだ未明の属性を、<自分>を相手に押しつけられない、というのが<おたく>の頃にはあった、という方が的を射ているかもしれない。それに対して、<おたく>以後、つまりそういう属性が定着した後の<オタク>では、もう<オタク>と言うだけでいい時代ゆえに、深く掘らなくても<自分>を<オタク>につなげられるのである。ある種切実さが、アイデン&ティティへの切実さが全く異なるのが、<おたく>と<オタク>なのではないか。と考えてみたり。
 それ以外にも、過去へ遡る必要性を感じない、というのも、知識への立ち振る舞いに影響を与えていると思うと、話が脱線する。今の情報だけで精一杯だから、過去を追う必然性から無い、と思われているとも考えられる訳だが、お前それでいいのか? というのがやはり出てくる。にわかというのがここを、過去を知らずに語る者として立ち上がってくるのであるからして、そこをどうするか、という話である。前回はそういう話だったが脱線してしまっていたのでここでもう一度励起しつつ脱線する。にわかをどうするか、というのはにわかにどう<自分>を自認させるか、だろうけれどもその道筋を作る必要は、しかし我々の方にあるのだろうか、というのが問いとして立ち上がってくるのだ。今なら<オタク>はすぐに自認出来る属性である。ちょっと漫画読んでる程度で、あるいはちょっとアニメ見てる程度で、名乗れてしまう程度の属性だ。とはいえ端緒はそこでも、下に潜ろうと思えば大変な属性ではある。しかし、簡単に名乗れるなら誰が深く潜る者があろうか、いやない。だが、その潜るという行為を、したい、と思わせる手管こそ、にわか問題には重要なのではないだろうか、と愚考するのである。
 これについては一番はそれが名声につながる、あるいは金につながる事であろう。あんたに恨みはないがぁ、金がもらえるからなあ! というのはダイレクトに脳を揺らすので有効であるのは疑う余地がありません。とはいえ、そんなダイレクトな事態なんてそうそうない。なので違う方向性を求めるべきであろうと考えます。となると、どうしたらいいのか。というのは、<教養>の方に一つの解があるかもしれない、と私は見ている。その解に近いと思う言葉を引用する。

(前略)、現代の教養とは具体的に何を学べばいいのでしょうか。すぐには役に立たなくても、社会に出て、やがて有効に働くようになる。そういう生きる力になるものとは、何でしょうか。
 それは「自分はどういう存在なのか」を見つめていくことなのではないでしょうか。「自分自身を知る」ことこそが現代の教養だろうと私は思います。(後略)
(池上彬『おとなの教養 私たちはどこから来て、どこへ行くのか?』P31より)

 これである。この発言の、というかこの発言ではなくその<立ち振舞い>解がある。つまり、それをする事で、<自分>が分かりますよ、という立ち振る舞いをする事ににわかに学習、必修を促す。これである。これは重要ですよ、とおためごかす事。自尊心をくすぐることに、そして実際に<自分>が分かる、本当にそれが<自分>であるかどうかはともかく、事をちらつかせること。これは欲得ではないように見えるからこそ、余計に響く物があります。そして、<自分>というモノを追い求めるなら、名声や金といったもののように用意する物がなくてもいい。ある意味、納得が全てを優先する世界になり、自分が良いならどうでもいい世界さ。となる。そういう意味でも、最適解と言える。
 で、<自分>だ。これはもうちょっと発展させると、<目線>になる。<視点>あるいは<視座>でもいい。とにかく、見る方向、<自分>というベクトルである。それは、物を見る、事を見る時にどう受け取るか、どう見るかという形で現れる。これを培う事が、<自分>を知ると言う事に繋がるのである。どのような<目線>を持つか。その培いが、<教養>またはか及びか、<オタ教養>の習得によってなる、と考えらるのが妥当だろう。だが、ここで問題が一つ浮かぶ。誰かに教えられる<教養>で、悪く言えば、相手のバイアスのかかった<教養>によって<自分>を得るというのは、はたして本当に<自分>を得ているのだろうか? 次回はそんな辺りについて書き散らしたいと思う。ていうか、今回脱線多いしそもそも長ない?