ふわーん

 来年まで逝きてられるかな〜。
 大体この月になるとふわーんが膨れて困るのがここ数年の年中行事の感がある、今日この頃。
 混線っぷりここに窮まれり。
 混線混じりで書いてみますが、とりあえずこの辺からぐるぐると。
 で、ですね。
 あんまり“せかいけい”とか言われてもしっくり来ない人なんで、さらに“しゃかいけい”その辺の区分が妥当なのかどうかは私には分かりかねるんですが、
 (ものすごく一応の)フィールドであるライトノベル読みとして思うのは、「川上稔」の人が“せかいけい”に対する傾向と対策として“終わりのクロニクル”を書いている気がするのです、ということですね。
 たとえば、

 ―――――私達にとって、自分探しや癒しなど幻想に過ぎない。
 (川上稔終わりのクロニクル1<上>34pより)

 これなんかはむしろ、“せかいけい”からの批判の対象としてもいい位の狙いっぷりだと思うんですけれどもねぇ。
 それはさておきですね、興味深いのは“せかいけい”の対策として書かれている(であろう)「終わりのクロニクル」が同時に“しゃかいけい”の対策にもなっているといえる点です。(内容の詳細は「いちいち言うのが面倒臭いので、各自で読んでください。」という教養主義的な言葉でお茶を濁させてもらいます。そのほうが川上の人の生活の向上にもつながるし。)
 私の確証バイアスかなにかの公算が大、なのですけれどもこれは結構面白いことではないでしょうか?
 もしかすると、かおるさんの言うところの“なにかよきもの”(掲示板参照のこと)を(意図せず)書いているんじゃないかと思うんですけれど、判定はいかに。

 最後に。
 ある事を「何々の何とか」と命名した時点で―今回の“しゃかいけい”のように―そのジャンルは完成してしまう、というかさせてしまうものなんだな〜、と何か納得してしまいました。
 この分だと、“せかいけい”というのも誰かの戯言だったんでしょうな。 その辺の歴史を良く分からず言ってますけど。