ひひょお〜〜 ひひょう〜(キカイダーのエンディングのサビっぽく)

分かりづらいネタから入ってみます。 そもそも、MADテープ*1でそのフレーズだけ聞いた記憶があるのみで、本物をきちんと聴いたことは無いんですけどね。
さておき。
こちらが思考の発端でちょとぼーっと。
批評がいるかいらないかといわれれば、あればあったほうがいいというのが自分の正直な気持ちです。 リンク先で「K氏」も言われているように、誤りや思想偏重などはそのつど己の中で修正していけば問題ないのです。
「ブンカザツロン」(ISBN:4757703929)*2唐沢俊一さんが、

(前略)右の左の<半々’s注:右翼左翼の意味>とこだわっていたんでは情報は集められない(笑)。
(ブンカザツロン:p15、24行目)

と言っているように、書き手、相手の思想信条を如何に見切って情報を仕入れるかというのは、オタクにとっては必要不可欠なスキル*3なわけで、本単体や作家、それを取り巻く環境に対する繰言や批評などがどんどんと出るというのはいいことではあるんです。
しかし、「批評」という言葉になんともいえぬ「偉そうな雰囲気」を感じてしまうのも事実。 なんでこんなに「批評」というのが「偉い行為」と感じられる様になってしまったんでしょうかね? 興味深いですが余談なので先に行きます。

※余談ながら。
このへんの事はおそらく、「日本文学」が“崇高なもの”となっていく過程とか、諸外国と日本における“教養”のニュアンスの違いあたりがポイントになるとおもうんですけれども、自分の頭じゃちーーーーーっとも分からん部分が多いので誰か教えてください。(また他力本願)

また、批評といってもそれを行う人達が自分の説に都合のいい情報や本を引き合いに出して語るというのが多いように感じる*4のも、「批評」に対する不信感として現れてきます。
これは思想信条というより、『動物化するポストモダン」で江戸への郷愁としてアニメの「セイバーマリオネット」が語られてるのに、なんでそれより先にあった「キャット忍伝てやんでぃ」についてふれられてないのか』とか、「ぼくの好きな、たとえば高橋弥七郎さんとか野村美月さんなんかは、たぶん批評の対象にならないな〜」とかそういう方向での不信感です。 (ちょっとニュアンスは違うかもしれませんが更科修一郎さんの8月7日付けの日記の10段目二行目辺りがそういう気分を代弁してくれてます。)
この「偉そうだな」と「胡散臭いな」が同居して「批評いらない」の方向につながっていて、この辺が解消されない事には「批評いらない」という雰囲気はこれからも続くことになるでしょう。
最後に、ちょっと放談。それが短期的な話だと承知の上で、ちょっと書いてみます。
将来この時期の空気を調べようという人が資料が無くて困る(意訳)、という文がありましたが、私はそんなこと正直どうだっていいことだと思います。 未来人がいかに困ろうと、死んでしまった我々にどうすることができましょうか。 いやできません。
はっきりいって自分は究極的に自分の死んだ先の事などどうでもいいのであり、まったくこれっぽっちも関心がありません。 「これを残すべきだ」なんていうのは、今まで残った物を見ることが出来るからそう感じるのであって、そう感じる“自分”が死んでしまった後にその「残すべきもの」が残っているかどうかなど分かるはずが無い。 そもそも自分が残そうと思うものを、自分の思いそのままで他人も残そうと思うというのが、どれくらい絶望的でありえない事でありましょうか。――なにせ、その他人は“自分”では絶対にありえないのですから!――
確かに「残る物」は今までありました。 残す方法も増えているかもしれません。 だからといって、それをもとに未来の人が今の時代の空気を“正しく”感じとれる、という確証がどこにあるのか。  そういうもろもろを含めて私は、「残ろうが残るまいがどうだっていい、今見れることをいま味わうのだ」という立場をとっています。
でも・・・。 
時には、「残ればいいな〜」と思うこともあるんですけどね。
ちょっと中島義道のおっさんみたいな文章になってしまいましたね。 狙ってやったんですけど、やっぱり中島義道本人の文章にはほど遠いです。

*1:MADDのカセットテープ版。 アニメ、特撮等の音声を切り貼りして作る。 現在のMADの祖ともいえる存在。

*2:この本を読むと、今の唐沢さんの発言が”じいさんの繰言”を意識しているんだというのが分かるんですが・・・。 唐沢さんに批判的な人はあんまり読まないだろうなあ

*3:ネット全盛の現在では、これはどんな人にも必須なのかも?

*4:元々人間は自分の都合のいい方向に情報を収拾、整理、改変する特徴がありますし。