発端は、この言葉からでした。
- ライトノベルの表紙には女の子を出さなければならないと法律で決まってでもいるのか
- (インターネット殺人事件2月16日より)
このことから、私は疑問を覚えました。
ここでまず確認しておかなければならないのが、インターネット殺人事件という人は秋山瑞人作品しかライトノベル(といわれる部類)を読まない事です。 つまりライトノベル方面には疎い、と言う事です。
そして重要なのは、そういった人でも気が付くほど、最近のライトノベルの表紙に「女の子」がたくさんたくさん出ているという事実です。
で、いつの間にこうなったのでしょうか、というのが今日の思案点です。
まず始めに考えるべき所は「人数比」です。
なぜなら、上記の言葉において「女の子“達”」ではなく「女の子」と単数で言い表されているからです。 それはすなわち最近の表紙絵の流行が「女の子、“一人”」である事の間接的な証明に他ならないわけです。
さて。
それでは、何時から「女の子一人」が主流なったのかについて、今までの流れをワタクシテキにかいつまんで見ながら考えてみましょう。 記憶に頼ってるのでいい加減ですから、ツッコミつつお願いします。
まず、ライトノベル黎明という事に一部の限られた人の中でなっているソノラマ辺りは…良く分からないので、誰か分かる人にその辺の検証を頼むとして、私が古本屋等で見て廻ったり、実際本屋で見た角川スニーカー文庫初期では、「女の子一人」というパターンはほとんど無かったです。 むしろ「男の子一人」というのがそれなりにある状態だった、と思います。 で、大体、女の子は「連れ」として描かれている場合が多かったと記憶しています。 主として描かれている物は少数ではないでしょうか。 いや、手持ちして無いんでなんともなんですけれど。
さておき。
そこから時代を下って私が本格的にライトノベル(その頃はそういう名前なかったですが)を読むようになった、角川スニーカー文庫&富士見ファンタジア文庫の膨れ上がりの時期。
この辺りでほぼ初の「女の子一人」パターン、神坂一「スレイヤーズ」(1990年:初期イラスト版)が出てきますが、これはこの時期においてはあくまで例外でした。*1
この頃の中心は水野良「ロードス島戦記」(1988年)に代表される「パーティ型」とでもいえる「複数人パターン」が多かったですし、またその内訳に女性の占める割合も少なかったです。*2 この「複数人」政権はすいぶんに長く、電撃文庫の初期もこの状態した。*3 というより、今でも一勢力としては(特に富士見ファンタジア文庫には)根付いております。 「女性が中心」という風にはなってきてますけれど。
さてさて。
この「複数人」パターンにいち早く手を加えたのは、角川スニーカー文庫です。 安井健太郎「ラグナロク」(1998年)、吉田直「トリニティブラッド」(2001年)における「男一人」パターン*4がそれで、ここに「キャラ一人」パターンが確立され始めます。
そしてそこからの派生としての谷川流「涼宮ハルヒの憂鬱」が2003年に登場してから、表紙絵は「複数人」パターンから「女の子一人」パターンに一変していってるようです。 やっぱり「ハルヒ」なのか。
といっても一応、先駆者として、角川には角川スニーカー文庫で米澤穂信「愚者のエンドロール」(ミステリー文庫の時:2002年)、電撃文庫では上遠野浩平「ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーターpart2」(1998年)、時雨沢恵一「キノの旅」(2000年)、甲田学人「Missing」(2001年)、高橋弥七郎「灼眼のシャナ」(2002年)なんかが様々あげられますけど。
閑話休題。
実際、「ハルヒ」以降、つまり2003年以降のライトノベルの表紙は、かなりの割合で「女の子一人」になってます。 時間無いんで調べられないんで、だれか比率出してください。 2002年と2004年ではかなり違うはずです。 きっと。 bk1だと「2003」とかでソート出来るんで、かなりやりやすいですから。「あくまでも他力本願」
んでもって。
この「女の子一人」って傾向は、つまる所、「(活躍する)主役が女の子」という方向から来るものではなかろうか? と考えられますが、それは昔からそうだった気もしないでもないんで、そうなると、「何故男の子は後ろへと追いやられるのか」という疑問がわいてきます。
そういう時代の空気、って事かもしれませんが、これはこれで考えがいがありそうなので、引き続き考えてみたいと思います。
以上、「女の子の絵が多いよね」でした。
<追記>
ラノパで同じ事してました。
不覚。