誤植を確認した覚えって全然なかったりする。

 誤植って読んでたらぴこーんと気がつくものなのだろうか。恥ずかしがりながらあまり気がつかない。気がつくのはよっぽどの時だ。誤植ってなんでこう、読んでるノリを挫くのだろうか。文章読んでいい感じに脳で作っている世界に、そういう違和感が混ざるのが悪いのだろうか。
 さておき。
 色々考えたんですが、今日確信しました。週一更新にしていこうと。というかネットは天気見たりとかメール確認とかの最低限以外は週一にしようと思います。とかいいながら、毎日のように日記を書いていることはよくあることなので、予定は未定という言い訳を既に発しておいてみたり。言い訳はしない方向になればいいですが……。とにかく、諸事情に向かって生きたいと切に思ったので、誓いを維持したいと思います。←一日で破る確率70%位←し、失礼なっ!
 さておき。
 本を読むことに対してひとくさり。なにかしらの記述は誰かに読まれて形を成す、と考える。ここの文章とかも、誰かに見られて初めてその価値が出るはずだ。*1その価値は、読んだ人に寄り添うものである。
 で、そこで「何か残る」という言い方が出てくる。この本は心に引っかき傷をつけたとか、なにかしこりみたいなのが解けたとか、言い方は色々あるが、つまるところ読後によくわからない何かが残り、それが何かしらの変化を自分に与えているということだ。
 そういう残るものを求めるというのは、更に進めば何かが残る事で自分の中の何かを変えて欲しいという願望だ、と言ってしまっていいと思う。
 じゃあ、そういう変えて欲しい、というのはどうなのだろうか。いい悪いで言えることではない。だから「どう?」なのだ。
 それ、どうなの? 自分のことなのに、他人に丸投げしていいの? 受身でいいの? どうなの?
 全部自分で出来る、変えられるというは流石に無理だと思うが、だからといってそれを全部他人任せ、というのはありなのだろうか。どうなのだろうか。
 あるいは、変わること自体を求めることも、どうなのだろうか。
 変わらない方がいい、とは一概に言えないが、なら当然、逆に変わったほうがいいとも一概には言えない。結局、自分と他人と状況によるということになるだろう。それを考えず、むやみに変わっていいのか?
 他にも、何か残るという言説には、はっきりした変化を好む傾向があるように見えてしまう。
 だがしかし、そんなに目に見えて変わる事ばかりではないんじゃないか? 地味に積み重ねて積み重ねて積み重ねて、ようやっと顕在することだってある。ぱっと見残っていないからと言って、それを放棄するのは乱暴ではないだろうか?*2
 なんか残るというのを求めるのは、悪いとは言わない。でもいいとも言えないんじゃないだろうか。
 とかなんとかまとまりもなく。

それからどした

 どうしても、「FLIP-FLAP」の感想を書きたい衝動に駆られて駆られたままに書く。いやあ、楽しい漫画だった。大体は下にて。明日はこういうことの無いようにしよう。といいつつな初夏の夜。

*1:誰にも読まれてない、という可能性は高いが、とりあえず自分でも読むので自分にとっての価値はある

*2:だから、何も残らない、と思っていてるものに対してもう少し目を配ってもいいのではないか。もしかしたら、そこには何かあるかもしれない。無いかもしれないけど。