天麩羅そば食らいてー

 沢城みゆきボイスで「五臓六腑に染み渡るわい」とか言われて、聴覚と空きっ腹への“同時攻撃”(ダブルアタック)だ! いや、あれはなあ、本当に、旨そうに見えて仕方ない。2D、つまりドット絵のたぐいなわけですが、それにも関わらず、いやそれだからこその食い物の絵の素晴らしさ。それが一気にするっと無くなるんではなく、徐々に減っていくのがまた。天麩羅そばの海老天を少しずつ食っていくのなんかみたらもう、食べたいよーって叫びたくなる事請け合いのじれったさですよ。
 さておき。
 前に一斗さんに教えていただいた本の一つ、『日本の家郷』を図書館で借り、一ヶ月くらい掛けて読んだり置いたり読んだり置いたりレンタル期間延長したり読んだりして、やっと読めたのですけれども、手応えがいまいちでした。どうにも、自分の問題意識とズレが大幅にあったようで、読んでて一々ピンとこず。だから読みも遅々。そのところどころで、「『花と火の上帝』!」とか「その地点は隆慶一郎が数年前に通過しいていたッッ!!」とか意味不明な感嘆が出てきて困りました。そういう本じゃねー上に単なる勘違いだから!
 さておき、そんな中でも「じゃあ、わしの方向性はどういう方を向いているの」という自分の問いに答えみたいなのが見えたのは僥倖であります。結局知りたいのは書き手にとっての「物語」ではなく、読み手、あるいは読み手ですらない人にとっての「物語」なんだろうなあ、とかなんとか。
 でも、今の時代に読み手ですらない人なんて、いるのかどうか。日本以外にはそれはいるだろうけれど、識字率の高い日本において、そういう人がいるのかどうか、であります。
 この辺はぐるぐると考えると、「そういう人に物語るという役が、語り手から書き手に移行していく」とか「その過程で物語はどうなっていくのか」とか「そうなった時勢、時期はどうなるのか」とか「語り手というのはどうなったのか」とか、色々沸いてきますが、なんか予想以上に手間掛かりそうだなあ、この道。オタ教養の話といい、死ぬまでには終わるんだろうかなあ……。
 さておき。
 今日は、本屋とビックカメラに立ち寄る。本屋で、問題意識のままに本を買ってみる。しばらく置いておく可能性が高いけれども、わりといい買い物ではなかろうか、という気持ちになって最高にハイってやつになりながら、ビックカメラに行ったらラブプラスが大量に陳列されていると言うこの諦念……。前の金曜はこっちに来とけばよかったんだ。それならエロゲ買わずに、これを……。かかる悪根……。とか変な電波を脳内でびういびういしながら、諦めて帰りました。買える金は、実はある。でもそれ買ったら「オオカミさん」買えないでしょー!
 とかなんとか。「曲矢」早く読まんと、「オオカミさん」が……。