滅びについて

人が来ないことをいい事にネガティブな話をしよう。 滅びについてだ。
人は死ぬ。 これはまず間違いないことだ。 永遠の生きられる世界が来るかもしれないが、正直な所願い下げだ。 それは死の裏返しだ。 永遠に死に続ける代わりに永遠に生き続けるというこだ。 究極に訴追すれば生の有り無しを永遠に考え続けること以外にする事がなくなるだろう。 問おう。 それは生なのか?
話がそれた。
人は死ぬ。 間違いなく。 それはつまり、その死という永遠の区切りをもって、その人の世界が滅ぶと言う事だ。 そう考えるなら我々は常に死の隣にいるのと同じで、常に滅びの隣にいるもといえよう。 死と同じで滅びは常にその口をどひらいて待っている。
さて、社会を維持するとはすなわち、その滅びを回避する行動ではないかと思う。 言い換えれば、社会の維持とは社会の死を回避する行動であろう。 この世界での一人の死によって、別の世界全てが死なないようにする運動。 それが社会の維持ではないか。
そう考えれば、なぜ社会が「自殺」を好まないか*1が見える。 それがひとつの社会、世界の死だからだ。 自分達が必死で避けようとしている現実だからだ。
かように考えてみれば、「にいと」とか「ひ き こもり」が忌み嫌われるのも当然である。 それはある種緩慢な死だからだ。 それも一人ではなく社会の死の部分、どひらかれた滅びだからだ。 目の前に死体をぶら下げられているようなものだ。 気持ち悪くない事の方が珍しい。
そしてそれゆえに、社会は生きる事を「にいと」や「ひ き こもり」に要求する。 己の死、社会の死つまり滅びを避ける為に。 それゆえに排斥する。 ぶら下がった死体から視線を避ける為に。
だがしかし。
死なない人間はいない。 同時に滅びない世界も無い。 社会的に死んだ者はそれが分かってしまっている。 生に戻ったところで死なないと言うわけではない事も。 ゆえに死を意識もせず「生きろ」という言葉に生臭みを感じる。 差し出された手が傲慢か欲得にまみれているのが見えてしまう。 そんな手がとれるというのか? 自分達をただ踏み台にしたいだけの手を取れと言うのだろうか。
綺麗好きが過ぎると言われればそれまでだ。 でもあなたは「踏み台にしてあげるから生きなさい」っていわれて楽しいですか? そして踏み台にしてもされてもやはり、全て滅びる。 全て死に帰す。 それでも踏み台にされたいのだろうか。
社会の絶対善は生きることだ。 が、しかし人は、社会は間違いなくいずれ死ぬのだ。 しかし社会はそれを認めては成り立たない。 そしてその事をわすれて社会を維持する事が、もしかすると一番死に近い方法なのかもしれない。 しかし、それでも社会は維持されていく。 滅びに向かって。

*1:自殺幇助って罪がある位だ、好むとは言わないだろう