被アンテナも順調に減りつつあり、ついでに久しぶりにネガというかうつろな文章が書きたくなったので書いておく。続き&モノクロ反転で全面において安心設計で書いておこう。
 書いておきたいだけなので、あんまりみないで……。自分がこういうことを思っていたというのを公開してさらしてしまう自虐で、見えない所でやればいいのに見える所でやる辺り、誰かにどうにかして欲しいと思っているんだろうなぁ。
 ああ、なまぬるい。
 さておき。
突然だが、もう自分はいなくてもいいと思う。もちろん文士的な意味で、である。林トモアキと成田良悟と川上稔と支倉凍砂がいれば、そしてそれ以上のあまたの作家がいれば、自分はいなくても特に問題ないと思う。
 ついでに生命的な意味でも、不要だと思う。ありていに言えば自分はニートでついでにキ印だ。捕まって、隔離病棟にも入った位だからそれなりである。そういう居て問題のある、問題を起こす人は居ても、いなくて問題のある人、問題を起こす人というのは究極すると居ない。なぜなら一人が居なくなって困る状態を作らない為に、組織あるいは社会というのはある、という面があるからだ。ソーシャル的に言うと全ての人間は応用が効く。あるいは融通が効かないとその組織あるいは社会は倒れてしまう。だから、切り詰めると自分はいらないといえよう。
 そも、自分が必要である、というのはどういう事なのだろう。自分が社会に与えられる影響は、凡な自分以上のもっと優れた人がいくらでもいるだろうから、あえて自分である必要などない。自分の感じる感情などが特別ある、というのは、そういう感覚が厳密に自分のみの、他人からしたらまるで幻覚のようなものである以上は、妄想でしかない。その溝を埋める事がコミュニケーションの骨子ではあるのだろうが、埋まった所でどうだというのか。
 物に執着する、というのもあるが、これもぎりぎりまで行くと「いらない」となってしまう。全てのものがいらない。一度そうやって、ほとんどのものを捨てた経験のせいなのかもしれない。何も持っていなくても、だからどうしたというのか。今あるものが急に無くなって、だからどうしたというのか。これが虚無的なのだ、とたまに思う。この感覚の最大の特徴は、底の深さではなく、溜まったものが急に消え去り、いつまで経っても穴が埋まらない事である。この状態になると、たとえばおととい買ったえろげを見限る事など造作も無かったりする。別に無くても困らない、と考えてしまうのだ。それは当然、自分の命にも繋がる。
 でも、そんな事をいいながら自分はまだ生きている。死のうとすらしていない。死んだ方がいい。死ねとはふとした瞬間に思うことは多い。だが入院中に常に思っていたからか、その感覚が麻痺してしまった。この麻痺を利用してさっくり死ねそうですらある。それにこの麻痺は前にも書いたけれどかなり危険だ。社会的に危険だ。なぜなら麻痺している部分というのは「死」に対しての本能的な忌避であって、それは自分のみならず他人にすら及ぶからである。要するに、唐突に何をしでかすかわからないのである。今はそういう考えが浮かんだ瞬間に「自分は生きていてはいけないんだなぁ」と達観し、自分をある意味殺す事で事なきを得ているが、いつこれが駄目になるか、知れたものではない。だから、死んだ方がいい。でも生きている。矛盾である。単にへたれとも言うが。
 一番いいのは、社会がとっとと自分を殺してくれる事である。自分達の社会の成長を阻害する要因を、排除あるいは矯正してくれる事だ。社会の成長を考えるなら矯正して強制労働でもさせるのが、一番いいような気がする。そういう技術は、今開発されてないんだろうか? それと家族への手厚いアフターサービスなどがあればなおいい。強制労働の分が家族に優先的に回ったりすればいい。まあ役人がポッケだろうから、望んでも詮無きではあるが。
 長々書いたけれどまとめは特に無い。とりあえず死ねばいいのに、俺、としかいえない。