(『魔法少女まどか☆マギカ』と『魔法少女ほむら☆たむら 平行世界がいつも平行であるとは限らないのだ。』のネタバレがあるので注意)
皆さんこんばんわ。とうとう戯言の時間がやってまいりました。さっ、宮殿へお戻りを。
と謎のインから入りましたが、今回はこのノリでちょっと長文になるので、まずい! と思ったら戻るを押してください。それくらい思考の迸りだけでやっていこうかと思っています。
何をやるか。それは二次創作の在り方についてを、架空人の人格権というワードを使って語るようにみ・せ・か・け! 『魔法少女まどか☆マギカ』スピンオフ、あfろ『魔法少女ほむら☆たむら 平行世界がいつも平行であるとは限らないのだ。』をほめそやす文章になります。うまくいったらおなぐさみだよ!
架空人の人格権
架空人の人格権、という言葉に耳慣れている方は相当の散歩男爵スキーだと思われるので、お友達になっていただきたい。という冗句をまず差しはさんでから、架空人の人格権というものについてまず、説明します。
とはいえ、それ程複雑なスキームではありません。文学や絵画、あるいは漫画やアニメなどの登場人物に人格権があるのではないか、ということです。これの基本的なところは、木村草太&新城カズマ『社会をつくる「物語」の力 学者と作家の創造的対話』<社会をつくる「物語」の力〜学者と作家の創造的対話〜 (光文社新書)>を読んでいただくと成程理解となるかと思います。*1
うんなもんあるわけねえだろ、という方も多いと思います。そう言う方はお帰り頂いて結構。どう考えてもこれから先の話に付いて来られないでしょうから。おっと、少し話を聞いてやらんでもない、というお方もおられますか。それなら少しお付き合いいただけるとありがたいです。キャディはお好き? 結構! ますます好きになりますよ!
さておき、架空人の人格権、というのは実際の所我々は既に半歩程既に踏み込まれている感があります。青少年関係の法律関係で、絵の女性に酷いことをするのはどうなのか、という話があったのは皆さんも知悉されているかと思います。これが、既に架空人の人格権の発露になっているのが、お分かりいただけるでしょうか?
絵の人は、実体的には存在しません。実存していない、とすらいえます。しかし、その架空の人に酷いことをする、という架空の出来事が合わさることに、異を為した、というのが酷いことをするのはどうなのか、ということの想像力なのです。つまりここに、架空人の人格、あるいは架空人への加害があるという意識が芽生えているのです。この点は、あるいは今の時代の先端なのかもしれません。
これが今後拡張していくのか、あるいはまったくぽしゃって散歩男爵の小説のネタになるだけなのか、というのは全く予断を許さないというか見通しがビタイチ立たないですが、それはさておき、この架空人の人格権、というのを話の中心に据えつつ、では二次創作とはこの場合はどういうふうにその人格権に抵触するのか、という話に盛っていきたいと思います。
架空人の人格権と二次創作
さて、架空人の人格権はどのような軌道を取るか、というと、それは作者の思惑とか、あるいは脱線とか、でもとにかく一つのルートで精神性を発露する、行動性を表す形になるのが必定です。あるストーリーの線上にあり、そして色々なことを体験し、物語の閉幕と共にその形を定める、と言ってみるのも一興でしょう。予定未定にかかわらず、とにかく終わりに向かっていくのが架空の人物の生態です。これには少し面倒な、つまり終わらないとそのキャラクターを表しきれないか、という問題がありますが、その過程の段階でも人は楽しむものですから、それに対しては途上でもあり。というジャッジで今回は続けます。
さておき、この一つの軌道に対して、違うアプローチをするのが、所謂二次創作です。公認的スピンオフから、非公認な同人のそれまで、そのアプローチは様々ですが、これは人格権の侵害に当たるのでしょうか?
この問題はたぶん、相当根深く、というか誰もアプローチしたことのない地平なので、まだ答えが、あるいは永劫、無いのですが、それでも個人的な見解を、ここでは述べさせていただきます。
見解。それはその人格への当たり方は、一つではない。というものです。そして、それ故に忌避すべきではないということです。
本家本元は、確かに一つの流れです。しかし、それが必ず正しい訳ではない。何故なら、その架空人の人格権の読み取りが、まさしく他人によって千差万別になるからです。これは現実でも、人によってある人の評価、評定が違ってくるのと同じもので、しかしそれで実人物の人格権が損なわれるか、というとそういうものではない、と結論づけることが可能です。人格権を損ねる、というのはある人にとってある人の評価が悪い、ではないはずです。ある人が、ある人の人格権を蹂躙した、ということで初めて立ち上がるもののはずです。架空人の人格権も、また同じようなことがないと損なわれた、とは言えない、と類推します。
そう言う意味では、架空人の人格権に対しての二次創作というのは難しい地平にあると言えるでしょう。特にエロいことをする話が人格権を損ねる、という話になるとまた混み入ってきます。そして、そこは今回語りたいところではないので、バッサリ端折ります。誰か考えてください。
で、バッサリとカットして、では架空人の人格権と二次創作の、どういう話がしたいかというと、原作、一次創作の架空人の人格権を、別角度で見る二次創作というのが、人格権の毀損には当たらないのではないか。更に言えば、架空人の人格権の解釈は、先にも書いた通り、一つではないのではないか。そう言う話がしたいのです。
最後のタームにつなぐ為に、当然の形ですがここで案件として『魔法少女まどか☆マギカ』(以後まどマギ)を上げます。この作品の骨子は、ほむらさんがまどかさんをただ普通に生きて欲しいと願う、というものであるのは論を俟たないでしょう。
その為の様式として、ほむらさんは時間を操作出来る力を持っています。これで、何度もまどかさんを魔法少女にしないようにする。なのに、どうしてもまどかさんは魔法少女になってしまう。だから何度も何度も、何度も何度も時間を巻き戻して、そして最後にまどかさんは超越的な存在になってしまう。ある意味では救われたけど、そうじゃない、として、ほむらさんは一つの賭けをして、それに成功して、自身も概念的存在になり、まどかさんの一部を普通の少女とします。
しかし、それでは自分はどうなる? ほむらさんは、もう概念以前には戻れないのか?
そういう含みで、今の所物語は一段落しています。
これに対して、様々なアプローチがされます。公式的にも、非公式的にも。この広がりが、一つ一つ、架空人の人格権の読み取り方として立ち上がってくる。そういう風に、架空人の人格権というのはあるのではないか、と思うのです。
ある不幸な人生を、架空人の人生を見て、それをそのままで伏すのもまた一つのアプローチ。でも違うアプローチもあるのでは? もしかしたら、ハッピーになれる可能性もあるのでは? あるいはもっと酷いことになる可能性もあるのでは?
方向性は違うけれど、それらもまた、架空人の在り方の受け取り方ではないか。
一つ、うろ覚えですが、野村美月先生の『文学少女』シリーズに、終わった作品の、そのキャラクターたちに幸せがあることを願う、という言葉があります。これもまた、架空人の人格権へのアプローチです。とても幸せとは言えなかった架空人に、描かれていないにもかかわらず、幸あれと思う事。これもまた一つの二次創作とさえ、言えます。
これは架空人だけのことではないかもしれません。よくテレビでも再現ドラマとかありますが、あれもまた一つ二次創作である訳ですよ。実体人にもあるなら、況や架空人をや。
話がそれました。そして強引に戻しつつ次に行きます。そう、あfろ『魔法少女ほむら☆たむら 平行世界がいつも平行であるとは限らないのだ。』(以後ほむたむ)です。
平行でないからこその可能性
ほむたむは、一言で言うならシュール系ギャグ4コマです。ほむらさんが時間をさかのぼることで生まれる平行世界の、その平行さ加減がちょっと俺たちの知る平行じゃないなー。という感じの世界観を毎度ぶっ立てて最後に潰す、というのを20回近く繰り返した漫画です。スクラップ&ビルド、というよりビルド&スクラップというべき、一発ネタをおったてて最後に必ず壊す様が素晴らしい一作でした。
そんなほむたむですが、それだけの漫画と思っていただいては困ります。公式スピンオフとして、やるべきところ以上のやることをやってしまっているのです。
その一つがほむら屋に集まる幾人ものほむらさん。他の時間軸のほむらさんが一堂に会するのです。これが他のスピンオフ漫画とは様相が違うところでしょう。つまり、今までのまどマギでは、一人のほむらさんが繰り返しをしていた、というだけでした。しかし、この漫画はそれを拡大解釈し、全く異なる時間軸の、色んなほむらさんがいた、というのを現出させてしまったのです。
これは大変示唆的です。つまり、われわれが思っている架空人の人格権というのが、その単体ではなく全く違う時間軸の存在のそれを見ているのでは? という示唆なのです。これは当然、私が勝手に思ったことですが、しかし同じ様態の架空人を、皆が皆同じように受け取っているのか。あるいは、全く違う時間軸みたいに、同じ架空人のようで違う、ということは当然あり得るのではないか。ここが、架空人の「私」と実存人の「私」の近くて遠くて近い所かと思います。あるいは、我々の「私」は思っている通りの物なのだろうか?
という話をすると脱線なので、元に戻してもう一つ、ほむたむの優れた点を上げたいと思います。
それは先に記述した、概念化したまどかさんを、もしかしたらこのほむたむのほむらさん達の誰かが、本当に普通の女の子に戻せる、または概念にはしないでおけるのではないか、という希望を見せたことです。
概念化したまどかさんは、最終話に登場します。そしてもう私が概念として魔法少女を救うから、時間軸をさかのぼらなくてもいいよ、というのです。
しかし、ほむたむのほむらは、それを拒否します。あるいはちゃんと、概念ではなく普通の女の子に戻せる可能性はあるのではないか、というのです。
ここです。ほむたむの二次創作としての最エッジはここなのです。確かにまどマギはその終わり方だったろう。そしてそのままいけば、まどマギのほむらさんが概念化してしまうだろう。
でも違う。そういう結末ばかりじゃない。今まで素っ頓狂な時間軸をめぐっていたけど、でももしかしたら、その方向性ではない、普通の女の子としていられる場所があるんじゃないか。
そしてそれは、まどマギのほむらさんが到達できなかった、ただ一緒にいる時間軸なのかもしれない。
そういう風に架空人の人格権を乱用するのです。完全に、元の話の流れからは逸脱しています。そりゃそうだ。まどマギのほむらさんは、最終的に魍魎の武丸みたいに「待ってたぜえ!この瞬間(トキ)をよお!」というレベルの覚悟でまどかさんの一部をただの女の子にしました。そして、一緒には生きられない事実に絶望するのです。そういう流れです。
でも、ほむたむはそれを許容しません。まだ、違う道があるはずだ、と宣言するのです。今まで本当に頓珍漢な時間軸で右往左往したほむたむのほむらさんだからこそ、まだ違う道があるはずだ、と言えるのもあり、確かにあるのかもしれない、と読者は思わされ、ここにまどマギの超克が行われた、と発言しても全くおかしくないレベルのものが建立されました。
これをもって、私は『魔法少女ほむら☆たむら 平行世界がいつも平行であるとは限らないのだ。』を名作だと喧伝する理由です。
結局
何が言いたかったかというと、架空人の人格権を基軸にすると、ほむたむがまた違った様相で立ち上がってくるなあ、ということなのでした。あfろ先生は今『ゆるキャン△』アニメのおかげで絶好調でしょうが、そのあfろ先生の比較的触りやすい公式スピンオフを、もっとみんな見るがいいや! というのもあります。ああ、『社会をつくる「物語」の力』もいい本なのでもっと読まれるがいいや!
と書いて、尻切れトンボで終了。すっとした。
*1:ちなみにこの本は個人的にはもう今年ベストの新書と位置付けたい、横断的で創造的で刺激的で網羅的で、とにかく色んな思考のフックがぶら下がりまくって爆釣な一冊なので、出来るだけ多くの方に読んでいただきたいと思います。散歩男爵が対話している、それも本当に様々な、例えば『蓬莱学園』だったり、あるいは『指輪物語』だったり、あるいは『法律SF』だったり、あるいはトランプ政権だったりで、とにかく話の刺激と網羅する範囲の野放図なところとか本当に堪りません。これが売れないなんてぶっちゃけありえないので、皆Kindle版でも、本屋に行ってでも、とにかく買おう。と長文でダイレクトマーケティングしてみます。いや、本当に素晴らしい一冊なんですよ!