己の視座について

K記11月16日分を読み読みして、私自身は「ライトノベルおよびその後の文化」についてどうだっていいと思っているのが分かりました。
そういえば前にもそういうことを書いたなあと思うので、引用。

最後に、ちょっと放談。それが短期的な話だと承知の上で、ちょっと書いてみます。

将来この時期の空気を調べようという人が資料が無くて困る(意訳)、という文がありましたが、私はそんなこと正直どうだっていいことだと思います。 未来人がいかに困ろうと、死んでしまった我々にどうすることができましょうか。 いやできません。

はっきりいって自分は究極的に自分の死んだ先の事などどうでもいいのであり、まったくこれっぽっちも関心がありません。 「これを残すべきだ」なんていうのは、今まで残った物を見ることが出来るからそう感じるのであって、そう感じる“自分”が死んでしまった後にその「残すべきもの」が残っているかどうかなど分かるはずが無い。 そもそも自分が残そうと思うものを、自分の思いそのままで他人も残そうと思うというのが、どれくらい絶望的でありえない事でありましょうか。――なにせ、その他人は“自分”では絶対にありえないのですから!――

確かに「残る物」は今までありました。 残す方法も増えているかもしれません。 だからといって、それをもとに未来の人が今の時代の空気を“正しく”感じとれる、という確証がどこにあるのか。  そういうもろもろを含めて私は、「残ろうが残るまいがどうだっていい、今見れることをいま味わうのだ」という立場をとっています。

でも・・・。 

時には、「残ればいいな〜」と思うこともあるんですけどね。
(2004・8・10)

さてさて。
批評の必要性とか、商業媒体に残る事の重要性とかは、資料集めとか雑誌のスクラップを作ったりしてるので良く分かります。*1
でも、結局上記のような気持ちがあるので、後代に残るような批評を書くより、その作品を今の時点でどのような位置にあるのだろうかと思案する方が好みであり、ゆえに日記に積極的に感想という形を書いているのだろうと思います。 自分が生きている間だけでも残ればそれで個人的には良いわけです。 後代に文化を継承するなんてこれっぽっちも必要性を感じないのです。 そんな高尚な事は出来る人がやってくださいなのです。
ゆえに、文化の継承など、どうでもよかろうなのです。 継承に告ぐ継承を経て今があるのに、傲慢ですね。
なんだかわけわからん文章になってしまった。 まあいいか。

*1:たとえば、ギルティギアゼクス(サミー)の攻略情報は当時はネットのものが最先端でしたが、今やその辺のデータは何一つ残ってなくて、展開の遅かったアルカディア誌の攻略情報が今でも残っている、って言うのをこの間体験しました。