往々にしてある事ダガー

うろうろへとへとお薬78日目。 はげがねー、はげがー。
さておき。
往々にしてある事だが、読み手という者は書き手(描き手)に対して好き勝手にイメージを抱く。 というよりも、イメージを抱く事によって記号、文字の羅列から「書き手」という存在が現れると言った方が良いだろう。 つまり、文章から浮かぶ書き手というのは、ほぼ読み手の想像の産物であると言い切れる。
だがしかし、ここで問題が生じる。 実際の存在として書き手がいて、それがイメージを乖離するという問題である。
外国の読者事情、というのにまるで明るくないので日本に限定して考えるが、日本では往々にして書き手に過剰なイメージを抱きがちである。 特に書き手が死んでしまった場合、どんどんと美化されていく傾向にあると思う。(たとえば宮沢賢治手塚治虫などが、妙に神聖視されている)
これにより、ちょっとでも書き手が抱いたイメージと食い違うと、その食い違う部分を否定することが、これまた往々にしてある。 これに対しては「イメージは所詮イメージ」という割り切りが当然に必要なのだが、全ての人ができるかと言われればそれは無理だろう、と答えざるを得ない。 どうしたってその事が分からない人は多数いる。
ではどうすればいいか。 一つの案として「思っていた人と違う」と言われる事を甘んじて受け入れると言う手がある。
文章(言葉)というのもが伝達の為の、他人と「通じる」ための道具であるなら、当然「通じない事」と「間違って通じる事」は避けられない。 ならば最初からその事を覚悟しておけば、少なくとも相手の勘違い、イメージ違いに心を痛める事はすくなくなる。 恒常的に文章を書く場合には、こういう考えも必要だと思う。