オタクと教養とオタ教養についてぐるぐると、の伍

初めに

 <オタク>と<教養>、そして<オタ教養>についてぐるぐると思考をめぐらし、どうめぐりまぐらみに嵌り、混乱し、錯綜し、迷走する文章を書き連ねていく試みです。まあ、単にアウトプット出来る範囲で出して、そこから新たな問題意識を掘り出し、情報収集の一助にするのが最大の目的で、基本的に他人さまが見て面白いというものでは決してない、と思っていただこうッ!! という悪文量産コーナーです。
 それではいってみましょう。

伍「あるいは<自分>について」

 前回で<自分>を形作るのを餌にすればにわか釣れるんじゃね? から、しかしその為に他人の挙げる必修を通るのは、はたして<自分>に辿りつけるのだろうか、という疑問が内に湧いた訳ですが、それにしたってここは同時に<教養>あるいは<オタ教養>の肝心要であります。これを修れば、というのが<教養>の基本であるからだ。これを見ておけ読んでおけ。話はそれからだ。である。ですが、それ故にそれは他人のバイアスがかかっているモノになるのは避けられない。それを持って、<自分>を構築するのに有効なのか、というのが難点であり疑問点なのである。もっと言えば、<自分>はどのように構築されるのか、というのが考え所だと思うのです。単に<教養>あるいは<オタ教養>の物件を感得するのがその道なのか。違う道はないのか。
 については、色々と解釈が可能で、たとえば知識は積み重ねから成り立っているのだから、それを詰め込むのは間違いではないのではないか。あるいは、自分の尺度というのが、そういうので潰れるかもしれないから駄目なのではないか。あるいは、積み重ねが無い所からの<自分>、あえて言えば個性などあるのだろうか。色々考えつきますが、個人的に考えたのは、そういうのを積み込みしてもいいんだけど、こちらの解釈は自由にさせて欲しい。というものだ。
 とかくこの部分は気になっている。<教養>というのが個の掘り下げの為にあるのなら、その掘った穴は<自分>の形になるはずだ。そして、その穴が他の人のそれ、ちゃんと言えば<教養>とは明らかに食い違う場合もあるはずだ。そこをどう処するか、という部分が気になるのである。
 世の<教養>とは、自分の<教養>とはあまりにトンチキな違いのある<教養>が生まれる場合もある。でも、それは否定出来ないのではないか。自分の<教養>が世の<教養>と近いだけで、それを否定する根拠があると言えるのか。そもそも世の中の共通的な見方と軌を一にしないといけないのか。それが同じであるのをキョウヨウするのでは、<自分>を得るという勧めは無意味と化さないか。
 これを無意味にしない、とするならば他人の<教養>、<自分>を受け入れるという方向が重要になる。となると、多くの<自分>を許容するのもまた、<自分>の手触り、やり方がある。否定できないけどそれでも否定するのもまたいいのかもしれないし、ちゃんと受け入れる方向もあるのかもしれない。つまりここもまた<教養>として立ち上がるのではないか。
 話がとっちらかったが、いつも通り。このまま続ける。
 もうちょい詰めると、自分を<自分>たらしめるのと、他人を<他人>たらしめるのは方向性は違うも、一つの教養の見せ場ではないか、という思考になる。他人という未知をどう対処するかが<教養>の一つの効能なのではないか、と更に考えれば、もう一段短くして、未知とどう相対するか、という文に辿りつく。もっと回転すれば、【既知をどう処理するか】と【未知とどう相対するか】の二つは<教養>という考え方にとってとても重要な事なのではないか、という思いに囚われる。そして、これから更に抽出すれば<知をどうするか>となる。これこそ、教養における最重要課題なのではないか。そう思った所で今回は終了。予定した考えからズレズレになったが、そういう予定の文章なので問題ないのである。