いきなり話し出す
だいぶ昔から、折に触れてはオタ教養とは何か、というのを命題に掲げて、本読んだり思考したりしていたのですが、それが全くまとまらないので、一回アウトプットしてスッキリリフレッシュしたい。ツイッターでもやってるけど、あれの散逸感は相当で、というかどういうのを書いたのかすらよく覚えていないし、タグつけたけどどういうタグだったか忘れたので、ちゃんと形として残る感じの記事にしておいておくといいだろう。そういうことになった。
どういう傾向の話なのか
不明です。思いつくままに乱打乱撃に思いつくままです。二度思いつくままという言うくらいわかりません。アウトプットすることを第一義としているので、話が取っ散らかるのは1000%、確定的に明らかなんですが、いつかちゃんと読み返してまとめれたらいいな。あったらいいなを形にしたいと思います。ここは俺の自由帳じゃあ!←だからといって未分化な思考をぶっぱするのは……
さておき。
とはいえ、全くのノープランで書き綴ろうとしている訳ではございません。不明ながらもこういう道が、というのをこねくりまわして抉り出してみますと、それはそもそもオタ教養とは? という地点にまず落ち着きます。他にそもそも教養って、とか、オタ教養と一般教養の差異とは、とか、何故一般教養ではなくオタ教養に向かう人がいたのか、とか、オタ教養とサブカルハイカル教養との違いは、とか、それら教養はそもそも両立は可能なのか、とか、ああやっぱり未分化だからくっくっくっくえすちょんくえすちょん、恋の仕ー組みーをと言わんばかりにクエスチョンが溜まってきます。それらは後々! 次の機会!
ということで、今回はそもそもオタ教養ってなんやねん、という地点についてつつと垂れ流していきたいと思います。
オタ教養とは?
最初から大上段、示現流の構えでチェストるくらいの勢いの問いかけです。そも、オタ教養とはなんなのか。
オタク関係の知識、と端的に言ったつもりでも、それでは余るのが、オタ教養という言葉です。オタ知識ではある、がそこだけなのか? オタ知識だけがあればオタ教養があると言えるのか?
もう迷走気味ですが、軽く一本化すれば、オタ知識とはオタ教養である、というのが真なのか偽なのかが分かれば、わりとまとまる範囲の話になりそうだとは勘付けます。
これに関する知見はまだ自分の中では未分化ですが、オタ知識というのはそれだけでオタ教養となるポテンシャルがある、けど、知識と違う、オタ態度、というものもあるのではないか。というふわっとしたところに着地してきます。
ちょっと話が混乱していますが、とりあえずまずはオタ知識がそのままオタ教養たるか、という話に持って行きましょう。
とはいえ、この辺の話は簡単かもしれません。オタにおいて知識というのが如何に大きなウェイトを占めているか、というのは往々にしてそういう人がブイブイ言わせているように見えるのがかっこいいので、強く感じるところではあります。
ただし、知識バックボーンに影響がないところ、あるいは薄いところでは、知識自慢は意味を成しません。これがオタ知識の難点かと思います。知識の段差は、どうやっても生まれるもので、自分一人だけなら全くどうだってもいいんですが、他人の要素が入ると考えなくてはいけません。そして、その知識の段差が、オタ物件の総体がふえることで、あちらこちらに出来ている。それであって、単に単一オタ知識だけで教養ぶるのは難しいのではないか。そういう風にも感じています。
なので、そのオタ知識段差を乗り越える態度、というのも、一つ必要な、教養の一部分なのでは、と思うのです。知識をフォローする、態度の在り方が模索されるべきなのかもしれません。すまん適当言った。
知識と態度のダブルタイフーン
オタの人というのは基本知識に対してステータスガン振りする傾向があります。自分もこの話を考える為に色々と本読んだりしていますし、とにかく知識を、とやっています。でも、知識というのがだいぶ安くなっている現代において、それだけで教養ヅラするのはやはり無理が生じている。ここで、知識に今までの経験という味付けを付与していく、という戦略で段差越えをしていくこともあるにはありますが、経験は古びるので、新たな経験がないと最終的に目減りしてしまいます。なら違う感じで教養っぽくたらん。そう欲するなら態度の方も必要なのではないか、というのが浮かんできた言葉なのです。
オタ教養的知識、だけではなく、オタ教養的態度、というのが、求められるのでは? 知らない、という段差を上手く乗り越える手つき、とでも言いましょうか。言わないかも。
さておき、オタ教養的態度、というのがそも何か、というのがまずわからんといかんのですが、今ふと思いついただけの言葉なのでなんだろう? と手に余っております。ただ、これは相手のオタ知識に対する態度、というべき形をとるかと思います。そこで、どういう態度を取るか、というのが、オタ教養的態度というもの、となる。そういう予感はあります。
その時の態度の取り方こそが、単に知識では到達できない道筋を示す、とも思いますが、ではどのようなものか。
まず、これは二者双方向に起きる態度である、とします。三者でもいいですが、明確になりやすいので二者間での態度としたいです。さて、ある人Aがある人Bにオタ知識を出した、とします。
この時にBには何種類かの態度が浮かびますが、その前にその知識を知っているか否かというジャッジがまずあります。このジャッジで、対応をどうするか。あれ、これも態度か?
まあいいや。とにかく知っているかどうかだ。ここで知らない、を引くと態度の話が良く見えてくる。相手の態度が、教養的であるかどうかもだが、こちらの態度もだ。知らない、ではどうする。そうした時に変に知ったぶるのか。教えを乞うか。相手の方も、教えるか、邪険にするか。色々な態度がここにあるが、そのどれがオタ教養的態度なのか。あれ、これ結構深堀出来る。サクッと次行きたいのに。
サクッと行きましょう。この知識に対する態度、あるいは対人に対する態度が、教養的であるかどうか、をジャッジする、ともいえるのかな、と。知りたい態度だけ、くれくれだけではいけないから、知っているという部分もいる。ただ知識を得るだけではなく、色々な発展を見せねばならない。知っているだけでも、相手に対して態度出来ないなら意味がない。知識と態度の風車が回るというか。両輪である、と言えるのかもしれない。
うーん、混乱してきた。とりあえずまとめよう。