集中でも何でもない
集中と銘打っているわりに期間が空きました。自分が集中した時の意なので、ここではそういうことはうっちゃっていきます。いいですね?
さておき、この文章の目算などを先に連ねておきますが、オタク、という事象に対する教養の立ち位置、もっと言えばオタ教養は成りえるのか、という部分についてぐだぐだあーでもこーでもけせらせら。アホセル風に言うなら「なるようにならあね!」という精神、ある意味では黄金の精神のそれで立ち向かう。そういうことに、私はしておきたい。
第一回でオタ教養は知識と態度のダブルタイフーン命のベルトとして、第二回で教養は蓄積とぶったてたものの、その後が今一浮かばなくて流れ流れていつか。そんな状況を打破せんと、無理やり思いつくことを書くという今までしてきた、二回だけど、の流れをくむ方向でカカッとやっていきます。
時間が長ければ良いのかという話でがす
オタ教養について外堀から行くと、まずその歴史が圧倒的に狭いことが言えましょう。オタというとアニメですが、映像作品がつくられるようになってもまだ一世紀少しの蓄積しかありません。漫画、ゲームは順を追って更に短い期間の話になります。そこを考えても、既存の教養、文学・絵画・音楽・演劇などと比する、というのは無理からぬことであると思えるかもしれません。
逆だ! まだ追えるレベルで過去を取り入れられるから幸福なのだ! まだ、全部見る事が、可能性は小さくともあるのが、既存の教養と違うところなのだ! 全てを追えるものは幸福である! これで人類は変わる!
というプッチ神父発言を真似たそれはさておき、しかし、そこがオタ教養の一つ秀でた部分であろうかと思います。どこかって、そりゃ、可能性という言葉が付記されるとはいえ、全部見られることです。散逸したものは沢山ありますが、それでもかなりのものが見る事が出来るというのは、他の既存教養との大きな差として現れると思います。
他の、既存の教養は、人の手により残った物です。逆に言うと人が残さなかった、あるいは捨てた、あるいは入りきらなかったモノが沢山あるのです。何かを残す為に、あるいは何も残すことはないと思われたがゆえに、教養とされるもの以外は残らなかった。ある意味当然のことなんですが、しかし教養という時は大体このことを忘れます。まあ、残った物がいい物だったからいいんですけども。もしかすると残らなかったものに対して自分はビンゴ!ってゾンクナックル解放するものもあったかもですよ、とはいえ、そういう可能性は全くない、何せ見られないのだからのですが。でもifを思ってしまうこともある。
それに対して、オタ教養は過去が短いゆえに遡行できます。先に言ったように散逸も結構ありますが、それでも現在にある教養に比べれば平気、へっちゃらです! といえるくらいに昔の作品を見る事は可能です。特にゲームは短いゆえにまだ全部知ることは可能な領域です。その点をもって、オタ教養はある意味新たな教養の世界を切り開いている、という強弁も可能かもしれません。
いい面も悪い面もある。俺だってそうする。
っても、それこそが宿痾になる部分です。知れないものがない、ということは遡行せい! ギブアップせい! というムーブが付きまとうのです。この辺が既存の教養と若干違うアトモスフィアで過去遡行マウントされる一因でしょう。既存の教養は過去と言っても残った物を味わえる、つまり基本的に大きく外れない、全く外れないことはないんだけど、なものなのですが、オタ教養はもう大外れも大外れというのを遡行しろとかいう訳ですよ。
既存の教養でそういう展開にならないことはない。それだけ淘汰圧を乗り越えてきただけの重みがありますから。が、オタ教養にはまだそこがない。そろそろそういうのが必要な時期が、と思っていたらそっくりその過去をスルーする人も出てくるので、やはり全部見ろ案件は終わらないのです。お前のような奴がいるから、教養マウントは終わらないんだ! ここからいなくなれー! とまでは言わないにしても、憎く思う。そういう増悪の園なのです。何がなのですだ。
このように、過去を遡行できるがゆえに知れ! 見ろ! それから! というけど基本観なくていいよねこれ。そういう老害ムード! が生まれてしまう、というのが多層的に分かるかと思います。いきなり多層的とか言い出しましたよこいつ。
エヴァンジェリストになるか、老害になるか。それともエヴァンジェリストになるか。
しかし、老害ムード! の人も老害としてしている訳ではない場合もあるかと思います。本当にこの過去を見ろ! いいから! という気持ちから、エヴァンジェリストたらんとしているかもしれません。
しかし、大体の場合エヴァンジェリストにならずに老害になる。既存の教養でもないムーブではないでしょうが、先述の通り残った物を見ろ、で大体済ませられるから、既存の教養は楽です。あるいは、新しいそれでも既存の教養の残物によって出来た既定路線に乗せて評価していけばいい。ある意味で今から教養をおったてなくてもいいから、簡単ですらあります。
翻ってオタ教養は、まだ昔のが見れて、あえて“しまう”と言ってしまいます。全入出来るから、それを求めるムーブが生まれてしまうのです。でも、全入ってことは完全に残りゃしないものもみろということであります。やってられっか!
そして、まだ教養として日が浅いので、何が残りきるかわかりきっていない。大体の概観はあるかもしれませんが、俺はこれを残す、という気概を持つ者によってそれが歪む、と言うと変なのでたわむ、可能性のたわみが生まれるという状況になっています。何が残るかが確定的に明らかになっていない、からこそ、どうして残ったかという思考から生まれる、生き残るに足る要素探し、つまり既定路線の醸成も未だ不完全。畢竟、日が浅いが問題を複雑にしているのです。
ここで、エヴァンジェリストという言葉を小見出しに持ってきたのは、そういう不確実の中で、これを見ろ、というムーブをするならエヴァンジェリストになるしかないだろう、という気持ちから出したものです。というか、サンキュータツオ&春日太一『俺たちのBL論』を読んでて、こういう教授、エヴァンジェるならいいんだ! という天啓を得たからもあります。『俺たちのBL論』では、サンキュータツオさんが春日太一さんに、BLを教授、あるいはエヴァンジェる内容となっています。これを見て、エウレカ! ったのですよ。上から教える、というのはこういう所作があったか! と。
ある種強引ながらも、BLについて教授していくその様は、まさに正のオタクという言葉が、BL教えているとはいえ、浮かんでくるに足るものでした。この方向性なら、エヴァンジェリストである、といえる。他の人もこういうムーブでいけばいいのに。とすら。
しかし、これはかなり難しいかもしれない、というのは読んでいてもう一段閃きます。これはかなり相手の気持ち、腑に落ちるレベルで知りたいという高いハードルに対して向かっていく意思があるインザミラー! という謎の語尾がでるくらい、本気で相手に教える、というのをやっているのです。これは、失敗すれば非難は、成功してても非難が出たっぽいですが、免れない。相手に変なBL意識を埋めた、というそしりを免れない。でも、相手に教えるには、そのそしりを敢えて受けるレベルで立ち向かわなければならない。そう、閃いたのです。
ここが、老害ムーブとエヴァンジェリストの差です。単にガチか、というだけではなく、もっと、相手の思想信条すら完全に破壊しつくすことになるかもしれない、というレベルの覚悟が必要なのだ、と。オタ教養というなら、そこまでする覚悟が必要なのかもしれません。
話が取っ散らかり過ぎたのでまとめ、そうねえ。
- オタ教養は既存の教養より過去の遡行で最初までたどり着けやすい。それで色々ある。
- オタ教養はゆえにまだ残すものが決められていないともいえる。それで色々ある。
- オタ教養はエヴァンジェリストを産める素地はあるが、そこには覚悟がいる。
こんな話だったかって? まあいいじゃん。