教養について格ゲー要素でなんか書く

御託

 教養について考えたり調べたりしている中で、色々と書き残しておいた方がいい内容が生まれるので、それについて書いておこう、というのが今回の主旨です。
 今回は成毛眞『39歳からのシン教養』

 を読んでいて想起したことを、ひとまず格ゲー置き換えてまとめるという無謀キャプテンな内容となります。
 とりあえず想起したことは今のうちに書いておかないと、後から考えるのめんどいのです。旬があるのです。
 ということで、今回はそう言う話になります。お付き合いいただけるとありがたい。

御託はいい、始めよう。

 今回は、また格ゲーをフィルターに使って考えをこねくり回します。前に書いた、
レジー『ファスト教養』について格ゲーでたとえてみる - オタわむれ 日々是戯言也blog
 で書き残している部分である、スト6のクラシックに当たる教養と、モダンに当たる教養についての話となります。
 もう少し掘り下げると、クラシックは旧来の操作法ですから、対応するのは旧来の手段で得る教養です。本を筆頭に色々見る、知ることで得られる。そういうのですね。
 このタイプは、いろんなメディアが生まれるごとにそれを旧来の教養の型に嵌めてきました。
 科学だとか文学だとか映画だとか、そう言うのの教養というと、この旧来のものの延長線上にある、とも言えますし、旧来の教養の仕草でそれらを腑分けする形でもあります。
 対してモダンの方は、現代のテクノロジーが可能にした事象で高速で教養を得よう、と言う仕草になります。その為に、ググる、あるいはWikipediaを活用する、という手っ取り早い修得を目指すものです。
 上のリンク先の内容では、教養を稼ぐのに適した教養、ファスト教養をチートと絡めましたが、この高速で教養を得ようとするのはファストじゃないのか? 危険ではないのか?
 そうザヴさん顔になって考えるのもむべなるかな、ですが、モダンの方はちゃんと教養というのはきちんと修める。でも、早い方がいいよね。というタイプなのです。本とか色々読むよりWikipediaで知ればいい、YouTubeとかで知ってもいい。というかググれ、というやつなのです。
 詰まるところ、手段として古風なのか、新しいのか、という差がここに顕在化している、と言う訳です。

なぜモダンがあるのか

 さておき、教養へのアプローチの新しい所作として『39歳からのシン教養』はある訳ですが、この内容についてモダンを適用したのは、先述通り、その高速での教養修得プロセスにあります。
 これに対応するスト6のモダン操作は、今まで必要だったコマンド操作やコンボなどをシステムが肩代わりするものです。これにより、コマンド操作の練習を省くことが可能になりました。
 先述の知識や教養を得る手段としてググるとかWikipediaを使うのと、これは似ている形と言えるでしょう。なのでモダンと対応させたわけです。
 で、何故モダンがあるか。これは格ゲーの面白さというのに最速でアクセスするための施策です。
 格ゲーは対人戦なら読み合いが面白さの一環です。
 ここで、跳ぶか跳ばないか。ここで、弾撃つか撃たないか。ここで、対空を狙うか狙わないか。
 そういう読みの中で遊ぶものです。
 しかし、従来では弾を撃つにはコマンド操作が必要であり、対空もまたコマンド操作が必要。
 そして、コマンド操作は偶々出るくらいの精度では対戦で武器にならない。狙って、確実に出せる必要がある。
 でも、この高い精度というのが難しかった。格ゲー慣れしていないと、この高い精度を、更に対戦で出すのは難しかったのです。
 実際、モダンがなければ最初はコマンド操作ばかり練習することになって、対戦の醍醐味にまで到達するのに時間がかかってしまう場合も多いので、萎える人もいたでしょう。
 そこを掬い上げたモダン操作は、それだけで価値があるものと言えます。

モダン型教養への疑問点

 翻って上掲書の提唱する教養も、ちんたら本読んで、それも色々読んでやるよりWikipediaでカカッと最速で知識を得るムーブな訳で、付合する部分は多いです。
 ただ、このモダンに相当する教養について、疑問に思うことはあります。
 それは、そうやって得た教養に価値があるのか、という点です。
 もう少しレンジを絞れば、素早く教養を得るのは合理に過ぎるのではないか、もっと遊びがあっていいのでは、というものです。素早さ全振りは無茶では、とも。
 格ゲーを経由して言うなら、波動拳コマンドには、操作としての理があるのに、そこを雑にボタン押すだけにしていいのか、というところでしょうか。
 モダンから見れば、波動拳のコマンド操作は無駄なハードルに見えてしまうのでは、と言っていいでしょう。
 ですが、これにはこれの理がある。
 前に力を放出する技だから、足元から前にコマンド操作する感覚。ボタンをただ押すだけではできない、だからこその必殺なパワー。
 その登場初期、つまりスト1においては、必殺技はまさしく必殺の威力だったからこそ、特異なコマンドが必要だったのです。
 そして、スト1より火力が落ちたスト2の波動拳でも、連続で2発当たると気絶する無茶なパワーがあったりしました。
 そう言う意味において、コマンドが必要ゆえに強い、というのが昔の必殺技のあり方だった。そう言えるでしょう。
 そこのあり方を知っていると格ゲー強くなるか、というと疑問の余地はあります。しかし、まず現実的な話として、他の格ゲーにモダンはないのです。*1
 つまるところ、格ゲーをスト6以外しようとするなら、コマンドをどうしても覚えないといけないのです。
 この辺を教養にスイッチしていうと、ある程度系統だった知識が必要である、ということです。
 つまり、ピンポイントで情報を得るだけで、系統だった知識が身につくのか? というのが問題点としてあるのです。

そもそも作者が系統だった知識があるからあまり気にしてなかった説

 どう考えても、モダンだけでは他の格ゲーをやっていけません。いずれモダンが広く施行される未来もあるかもしれませんが、それでも過去の格ゲーにはモダンなんてハイカラですねなのはない。
 どうしても、そういうのを楽しむ為の知識、クラシック教養は必要になってくるのではないか。となる訳です。
 で、どうにもその部分が、今回の思考の端緒になった上記してある本では抜けている感じがあります。自分はこれで出来るから、出来る! というのは基礎が同じ形ある人向けなのでは? というのがあるのです。
 確かに、ググったりWikipediaで情報を得るのは早いですが、それがどこに繋がるのか、という体系がないとただ情報を得ているだけで、活用できる形にはなっていないのでは、とか思ったり。その辺に対しては特に言及がなかったので、そこがあるから抜けている、というのがあり得るなあ、とか思ったのです。
 しかし、広く格ゲーをやる上でクラシック操作が重要なように、知識を得る為にも広く使える型がある。すぐに出来るググったりWikipediaで得る情報もありかと言えば当然ありなのですが、そこの下支えがないと情報だけがある人になってしまうのでは? 教養を持つ形と言えるのかそれ、とも。
 それに、無駄を削ぎ取っていくのが正しいのか? という点もあります。読書したり観劇したり映画観賞したりというのには色んな無駄がある。見るのが無駄ともいえる駄作もあるし、そもそも欲しい情報まで無駄がある場合もある。
 著者の方もテクノロジーがない頃はそういう無駄と付き合ってきたはずで、それゆえにその無駄さがメチャ許せんよなーっ!! なのかもしれない。
 でも、その無駄を本当に切り捨てていいのか? という躊躇いが私にはあります。
 藤本タツキ『チェーンソーマン』について語る新人Vtuber、ピエ郎さんの解釈に、「誰かのクソ映画は誰かの神映画だった」というのもあります。つまり、自分にとって無駄情報でも、他の視点なら神情報になるかもしれない。
 なら自分もその視点への移動を考えるのも、それはそれで教養のあり方ではないのか?
 逆に言うと一点を見過ぎるのは、それは教養ではないのではないのか? とも感じます。
 無理やり格ゲーで言うと、クラシック操作を覚えて過去の格ゲーをするのはそもそも無駄かもしれないのですが、その過去掘りによって本当に好みの格ゲーというのに出会う可能性もある。
 結局のところ、格ゲーをするのは勝てるからとかも当然あるんですが、勝てるから、ではなく楽しいからさ! というコブラ感もあると思うのです。
 勝つという意味では、昔の格ゲーというのはそももそプレイ人口の面とロケーションの意味で対戦するのも大変です。勝つ以前の問題です。
 しかし、楽しむという面で言えば昔の格ゲーが今の格ゲーよりどこまで劣っているか? というのはあります。スト6とスト2ではゲームの性質が全く違いますが、だからと言って面白くないのか? というと否と言える人は多いかと思います。これはこれでいいのだ、と。
 そしてこれはこれでいい、と言える立ち姿こそ、教養のあり方の一つと言えるのではないか。
 などと、考えてしまった次第なのです。それをここまで無駄語りしてしまいました。
 てへぺろ

まとめ

 モダンな速攻情報吸収術もいいけど、クラシックな体系をじっくり得ていくのも当然ありではないのか、というのと、無駄はいらないけどいるのではないか、という話でした。
 かなり無理のある内容ですが、とりあえず自分の中で上掲本についての理解が促進したので、それでいいのだ。
 とかなんとか書いて〆とします。したらな!

*1:モダンに属する操作を持っているゲームもありますが、大勢として多くはないのです。