今、時代を特に席巻していないオタ教養とは その2

【Steamキー】ストリートファイター6|オンラインコード版

またぞろ考えてみた

 オタ教養とは何か。という誰も気にしていないラインの考えを頑張って考えるコーナーです。
 オタ教養の話、というのを寡聞すぎて難聴じゃね? レベルで探ってないのですが、あんまり誰もが考えるラインじゃなさそうなのに、私は妙に気になっているのです。
 これを分かる意味というのが、自分需要しかないのですが、それでも自分需要は大事だから……。と無駄に考える日々です。あるいは独自研究という事も出来ます。出来るだけです。
 さておき。
今、時代を特に席巻していないオタク教養とは その1 - オタわむれ 日々是戯言也blog 
 上記リンク先で、教養とは知識だけではなく、継承性と大局感が絡んでくるものだとなりました。
 それに対してオタ教養はどうか、みたいな話をカカッとしたやつです。
 今回は教養とオタ教養の差とは、みたいに思考から派生して出てきたことを考えてみたいと思います。
 何が出てきたかというと、教養とは過去なのか。それとも現在なのか。という疑問です。
 いきなり意味不明ですが、ちゃんと説明していこうと思うのでしばしお付き合いいただきたい。
 それではいってみましょう。レツゴー!

流れとして第二回となる思索の一端

まずどういう脳内スキームかの説明

 教養とは、過去ではないか? という疑問が最近湧きました。もう少し具体的にいうと、現在までに評価の定まった過去のものを起点としていないか、教養よ。という話です。誰目線だ。
 この辺は日陰者のオタ特有のひがみも多少(多少?)含まれています。過去から順繰りきているコンテンツへの素朴ながら根の深い嫉妬というか。
 とはいえ、教養の精神性の系譜も、大局感も、どちらも過去の積み重ねの上で成り立つ側面があります。
 つまり、歴史的に意味のある積み重ねによって、教養としての価値がある。継承。
 あるいは教養する際に参照される。大局。
 過去があるから今があるので、その流れ自体はおかしくない。
 んだけど、そうなると今の評価というのが計れるのか? と言う疑問が出てくるのです。
 今この瞬間のこれは教養! なんて言うか?
 これに対しては、そうはならんやろ、となります。
 それは、そういう現在の評価では決まらない、積み重ねからこその教養に意味があるものだからです。
 今その瞬間はいいけど、後からするとはてな? というのは教養としての価値はないでは? となります。
 でもその瞬間には価値があったのでは? という視座というか胡乱な目つきが、教養は過去であり、逆にいうと現在ではない、となる訳です。クルッテルネー。

オタ教養は現在か?

 では、オタ教養はどうなのか? となると、言っても教養ですからね、とはなります。
 オタがついてるとはいえ、方向性としては教養です。
 ところが、オタはかなりの部分では現在今ここに焦点が当たりやすい。
 今、そして今ッ! 評価を下さないといけない場合が多い。この漫画今おもしれえ! とか、オタ案件にはその瞬間の良さというのがあります。今なのです。天の裁きは待ってはおれぬのです。この世の正義に期待。
 本来ならもうちょい時間が経って評価が固まります。普通のものでもオタのものでもそれは変わりませんが、それでもオタク案件は早い評価を求められる。この辺はオタク案件特有のムーブかもしれません。
 これをさらに面倒にしているのは、そういう瞬間の評価が高くても、結局は無に帰すことが多いというややこいとこが多いことです。瞬間良くても、というのはよくあります。
 それもあって、オタ教養というのはどうにも成立しづらいのではないか、と混乱がやってまいりました。書けば書くほど混乱が増すな、おい。
 今のオタというのはあまりに今だ、ということもできます。とにかく今の時間を惜しむとされる時代です。昔を顧みるより今の作品、という感じ。
 その辺は世代もあるのかもしれません。コスパ、タイパと言われる昨今で、今役に立たないものに時間が割けるか、です。といって過去遡りの癖がある人が多いのもまたオタですし、単純に一枚岩ではない。
 とはいえどうしても目につくのが今! そして今ッ!! なものだという事なのかもしれません。そのタイミングで、教養は活用できるのか? という地点へと私はいざなわれてしまいます。

格ゲーオタが落ち着いて格ゲーから考える

 私、格ゲーオタなのでここで唐突に格ゲーで考えることにします。かなり変な話になるかもなのですが、なんとか分かりやすくするよう心がけます。
 しかし、それでも、恋、それは恋。ランラララン、ランラララン、ランラン、ランラン。と豪傑寺2のアニーステージの曲の歌詞みたいなことを出すかもしれません。そこは予めご了承ください。
 さあ、予防線は張った。
 先述の流れを格ゲーに変換すると格ゲーの教養というのが現況格ゲーシーンに影響があるか、という話になります。
 順を追いましょう。
 現況でもっとも活発な格ゲーは『ストリートファイター6』で間違いない。新たな格ゲームーブメントを、狙ってやった、偉大まである作品です。
 そこに、格ゲーの教養が生きるのか。
 そういう話になってきます。
 てか、格ゲーの教養がそもそも何?
 そこはゲームはリアルな体験も含む。ゆえに経験値と言い換えてても、この場合はいい気がします。
 今まで体験してきた格ゲー。蓄えた格ゲー知識。そのエッセンス。そういうのが格ゲー教養です。
 これが生きるか、というと表裏ですな、と回答せざるを得ない。
 スト6で今までの格ゲーの経験値が生きない場所もある。
 スト6で言えばその独自の味わいというのは、今までの経験が生きません。ドライブラッシュやドライブインパクト、ドライブパリィの感覚はスト6独自ですし、それゆえにそれを用いた戦い方がスト6オリジナルなところです。
 更に、例えば私の様にGGSTを至近でしていた場合、空中ダッシュや空中ガード、あるいはバーストなどがないのでその経験が逆にあだになってしまいます。通常技の振り方なども、スト6とは違うので、そこの感覚も違ってきます。
 経験値があるけど、逆にそれが枷として働く、という例です。教養が身の仇、となる場合がある例と言えるでしょう。

格ゲー評価の難しい

 そして、スト6がいいゲームか、という事に関していえば、格ゲー教養、格ゲー経験値があるなら、いいとは思うけど今はまだ分からない、という解になったりします。
 まだ出て半年経ってない格ゲーを今評価せよと申されるか、という反論が、格ゲーの教養があると自然と出てしまうのです。
 半年もあればできるやろ! と思われるかと思いますが、これはさにあらず。
 実際問題、スト6を今評価したところで、今後の調整、あるいは新キャラの追加による変動などで評価が二転三転してしまうのは、格ゲー経験者ならよく知っていることです。
 ゆえに、そこを軽々に語れないというのが、格ゲーの教養から導き出される言葉なのです。優柔不断とかではなく、まだ変化するからなのです。
 しかし、教養を無視して語れば、今は相当の神ゲーという言葉が出てきます。この数か月で全然飽きずにやれているんだから、そうだろう。そういう数か月だけの、教養とも言えない反射での回答はそうなります。
 これが今この瞬間に、教養が役に立たない瞬間ではないか。おお、なんかまとまってきた。

教養よ、待て

 とはいえ、スト6と言う格ゲーの教養、経験が数か月分溜まっているから、軽々に神ゲーというのもまた教養の御業だ、という言いかたも可能かもしれません。格ゲーの教養のある人はその行為を浅薄とは言いますが。
 さておき。
 諺に「晴天を褒めるには日没を待て」、というのがあります。
 昼日中くらいに快晴でいい天気だった! とするのは早い。途中で夕立があるかもしれない。午後から天気が下り坂かもしれない。そういうのがなく日没になって初めて、いい天気だったといえる。
 つまり何事も終わってみないと分からない、というのが大体の意味です。これについては格ゲーも似たようなところがあります。
 格ゲーというのは調整が入ります。昔は基板ごととっかえるような、スト2からスト2ダッシュみたいな、やり方でしたが、ネットワークが浸透することにより、調整としてオンラインアップデートが可能になりました。
 これにより、今はいいけど調整来たらそこは変わってくる、というのが格ゲーには一般的なことになったのです。
 これはつまり、日没が来るまで時間がかかるようになった、というのを意味します。
 最終のアップデートがきて初めて、そのゲームの総括が出来る。そういう時代になったのです。
 一応、新しくなるごとに一つ前の総括は出来るには出来ますが、結局そこもまた移り変わる訳で、そこに一つの段落以上の価値はありません。
 ここでスト6とは別の格ゲーの、GGSTの話をしますが、この度GGSTはシーズン3として色んなところにメスが入りました。
 その一つに、今まで緊急回避という感じで使われていた、所謂バーストのゲージが、別の行動に使えるようになったことが挙げられます。
 これはかなりの改革です。その影響で、戦い方というのもかなり見直しがされるようになりました。バーストを如何に使うのか、というゲージ管理が全キャラに求められるようになったのです。
 このように、全くゲームの基本が変わることすらあるので、今の段階が全て、と軽々に答えることは、格ゲーの教養があるなら出来ません。それが過去とならないと、結論づけられないのです。
 こう考えると、やはり教養というのは過去が来ないと始まらないのだ、という考え方にいきついてしまいます。
 とりあえず、教養として評価する為には終わらないといけない。終わってからが、教養のターン。そういうことなのかもしれません。
 教養よ、待て。

とはいえ表裏なわけで

 教養が待ちをしないといけない、過去からくるものである、というの話でしたが、突っ込み箇所はあります。
 教養が現在に生きる部分もあるだろう、というのが。
 先述の表裏の裏が、教養としての裁定に時間がかかる、過去にならないといけないというのがあるなら、その表は体験の為に知っておくと有利な部分がある、ということです。
 つまり、教養があるから楽しめる、という部分があるのです。
 格ゲーなら、操作感とか、今までの経験でこういうのはこう使うな? という理解が、格ゲー教養があると出来るようになる。これは継承性です。
 それにより、素早くその格ゲーに順応できる。どういう勝ち筋に持っていくかという大局観を持てる、とでもいいましょうか。
 教養にはそういう基部になる面もある、と言うことが言えるかと思います。さあ、話が混乱するぞ!

まとめ

 まとめましょう。
 教養は基本的には過去からのものであり、現在楽しまれている今を教養として切り取るのは役の外。現在性とでもいいましょうか。
 しかし、その教養があるからその作品が楽しめる、その事態を理解出来る、という側面もある。これは継承性と大局観によるもの。副産物かもですが、とにかくそういうのがある。
 現状のそれを語りつくせないけど、それを楽しむ枠線には使える。そういう部分が教養にはある、という事かもしれません。なるほどなー。
 という感じで、ひとまず形にはなったので今回はこの辺りで。次回あるとすれば、過去作を参照する意味合いというのをやっていけたらなと思っています。教養とは過去からのもの、だからこそか、という感じですね。
 それでは今回はこの辺で。したらな!