レジー『ファスト教養』について格ゲーでたとえてみる

ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち (集英社新書)
ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち (集英社新書)

この章について

 オタ教養とは、という特に個人的な欲得以外に意味のない視点の為、教養についての本をカカッと漁っているので、教養についての知見というか、こんなかなあ、というのが蓄積しています。まあ、まだ道の一歩目ってとこですが。
 ただ、そんな中でレジー『ファスト教養』についてカカッと何か書いておきたいという機運が勝手にたかまれタカマルしました。
 これは発売当初に買って一度読んだ本で、今回は再読なんですが、初読の時に感想上げずにだらだら適当してたら機運を逃したので、今は再読によりその機運が来た、というので雑に語ろうかと思います。
 とはいっても、単純に語ると私が面白くないし、無理に変なバイアス、あるいはバイパスをかけた方がよいのではと。
 そういう素人考えに基づき、今回は『ファスト教養』について格ゲーに置き換えたり戻したりしながら語ってみたいと思います。やりたいことはやったものがちってばっちゃが言ってた

そもそもファスト教養って何? って話さ

 そもそもいきなりファスト教養とか言われても何が何だか分からんぞ! となると思うので軽く説明すると、お金を稼ぐ前提で得ようとする教養、コストパフォーマンスが高い教養、という辺りでしょうか。
 もうちょい細かく、知っておけば出し抜ける教養とか、あるいは中間層から落ちない為の差別化の為の教養とか、色々あります。
 あんまり色々やると混乱するのですが、逆にあんまり単純にするのも業腹なので、あえてちょっとぐちゃりました。
 ここを簡略化するのは、上掲の新書の意図からすると違うかな、という判断です。
 それとあまりキャッチーのをつけないのも一つの所作ということで。

教養と教養とファスト教養について(ただし格ゲーでフィルタリングするものとする)

 とりあえずファスト教養についてカカッと説明したので、ここからは格ゲーを物差しとして教養と教養とファスト教養について語っていきたいと思います。
 そもそもなんで教養が二つもあるんだよ! なんですが、これは格ゲーに例えると二種類に分類できる形になっていて、且つ分けた方の新しい言いかたが思いつかなかったので、そのまま並列しています。苦肉の策!
 さておき。
 とりあえず、教養の前者にはスト6からクラシック、後者には同じくスト6からモダンをあてがいましょう。 
 つまり、クラシックの方は昔からある教養の形、読書などの文化を通じて畜養するタイプのを。クラシックというだけあって、古めかしい感じがあるかと思います。
 後者は最近の技術、端的に言うとGoogleWikipediaなども取り入れたタイプ、という違いです。今の使えるものを使って効率的だ。というタイプともいえます。
 これで大体、元のやつと対応しているかと思いますが卿らはどうか。
 さて、これだけで、かなりケンケンがガクガクしそうな状態なのはお判りいただけますでしょうか。
 この場合、どっちが正しいか、という論争はよくあるけどあんまり価値はない、となりますが、そこは分けて考えていきましょう。今回はファスト教養についての話ですので。分けて考えましょうったら!
 さておき。
 教養がクラシックとモダンに分かれている、というのなら、ファスト教養にあたるものがないのではないか。
 そう思った人はモダンをファスト教養にしたかったんですか? という変な煽りをしてしまいますが、そこにはちゃんともう一つあるじゃあありませんか。と言いたい。
 つまり、それはチートです。

ファスト教養=チート仮説

 スト6でもチートを使った人が出始めたというのがここ最近話題になっていますが、個人的にはファスト教養もまたチートの、悪い意味のほうであるな、と『ファスト教養』を読んで感じたわけです。
 チートというとちょっと凄い! という意味合いに取れるのもあるんですが、そういう意味でもファスト教養もある意味ではチートの世界です。
 世の中の正しさ、正確さとは少し離れて、ちょっと通説や事実と違ってもそれで知識を速攻簡単に得られるならいいのでは。
 こういうのは格ゲーフィルターを通すと、勝つことが正しいのだから、勝つ為に細工をしてもいいだろう、チートを使ってもいいだろう。という話と順接します。これはクラシック及びモダン、どちらの側としても容認できない人は多いでしょう。ファスト教養に対する教養側も同じように受け入れにくいことです。
 ファスト教養もチートも、根元まで行くと勝ちたい、あるいは転じて負けたくない、落伍したくないという点で一致します。チートで落伍の危機を感じるレベルってあるのかというのは、実際あるようになるかもしれない、という気はしますが、まあ過言です。
 過言しつつ進みますが、この勝ちたいという意欲自体は基本問題ないのです。誰でも一番! あるいは1億円! というのにそこに痺れるッ! 憧れるぅ!! して目指したくなるものです。そこ自体は全然問題ないはずなんです。
 ただ、それが度を超すのが問題になる。格ゲーで考えると鮮明になりますが、誰もが1億はとれないし、一番にもなれない。
 そこをどう折り合いをつけるか。
 その部分を尊重した上で、ゲームの様式、クラシックやモダンを選択していくということが出来ます。自分が出来る操作の中で、どうやっていくか、という話ですね。
 そこに対してチートという操作を使う、というのは、勝ちたいし負けたくないし、というのは分かるんだけど、なんかおかしくねえか……? ということになります。

チートで何がいい?

 勝ちたい。負けたくない。
 この気持ち自体は分かるんですが、そもそもなんで勝ちたいのか。負けたくないのか。
 そういう地点についてとにかく一番になりたいから! とかならまだましで、よくよく考えるとなんで勝ちたいのか、というのが失伝している可能性すらあります。
 そもそも、一番になるのにチートは割って入れないのでは? 大会とかではチート出来ないんですよ? なのです。
 ここで柴田ヨクサルハチワンダイバー』のプロ棋士に強制時間制限という強引な手で勝つ、というようなのもあるかもですが、それとは違って今の時代はゲーム運営のほうでその辺のチートは分かるし、『ハチワンダイバー』でもちゃんと分かる人が見たら強引な手段だと分かる、という段階でチートで一番! は実質無理なのです。
 そしてそうなると、チートは一体なんの為にしているのか? と言う立ち位置の崩壊がおきるわけです。
 これをもとのファスト教養に戻して整理しなおすと、稼ぐが目的過ぎてそもそも何故教養を得るのかわからない、と言う地点にたどり着くことになります。

本末転倒

 格ゲーにおける勝つは、ビジネスにおいては儲ける、稼げるだとすると、格ゲーのように勝つが目的化し過ぎで、どんな手段に及んでも勝つとなり、チートに走るというのは、稼げるからというだけで金になる教養を仕入れるという流れになるかと思います。
 ここのところはかなりごちゃついてますが、ここで格ゲーフィルターを入れれば、格ゲーにおいて勝つことが重要で狙いではあっても、それだけを目的化すると上述のように途端におかしくなるのと、軌を一にするかと思います。
 つまり、教養を金になる、稼げるで追い求めると、結局稼ぐのがなんの為か未明になる、だからなんの為の教養なのかもわからなくなる、と言うことになりそうです。
 個人的な見解且つ少し繰り返しになりますが、勝ちたい、負けたくない、というのはどんな分野にもあります。特に格ゲーはそこがダイレクトなので今回のフィルターにしました。
 で、ファスト教養の関連するビジネスの世界なら、それが稼ぎたい、落伍したくない、という質に変化します。とはいえ、大元は勝ちたいし負けたくないには変わりありません。
 それ自体は全然普通のことで、誰しも何かしらの場面でそういう思考になるものです。スト6とか、1億ですし。そりゃ誰だって思うさ。
 ただ、チートやファスト教養の手付きになる時、忘れていることがあります。
 それは、勝ち続けることは出来ない、ということです。梅原大吾さんの名台詞です。
 ほんの極小過ぎて見えないレベルで、勝ち続けることが出来る人がいるかもしれない可能性は微レ存ですが、ほぼ100%の大凡の人は勝ち続けられないのです。つまり、稼ぎ続けられない、とも言えます。
 その、勝ち続けられない稼ぎ続けられない我々が、それでも常に勝とうなんてちゃんちゃらなのです。
 勝ったり負けたり辛勝したり惨敗したりする。
 チートやファスト教養で勝てても稼げても、それが使えないタイミングもある。
 そもそも、究極すればそれらを使っていてもやはり負ける時はある。
 その時、チートは、ファスト教養は何の為にあるのか?
 とかなんとかそれぽいことをいってみます。

何事にも限度がある

 格ゲーにおいて勝つことはでかい部分です。勝つ為に精進すると言う側面もあります。
 ただ、でかいけど最大値ではない。勝つ為にプレイは当然するんだけど、勝ちたい以前に闘いたいという面もある。この闘いたいこそが、格ゲーをやる上で至上とすべきものではないかと愚考します。
 そこにおいて、ただ勝ちたいは意味がない。チートして必ず勝てる試合をして何が楽しいのか。という部分にも焦点が当たります。それに意味はあるのか?
 ただ、それが楽しいという人もいますから、話がややこいのですけれども、必ず勝てるのが楽しいのも限度があると思いますし、チートしていると知られたら、対戦してもらえなくなるかもしれない。
 そして、チートが使えない闘いになれば、馬脚が現れてしまいます。それでもチートを使う意味はあるのか。
 これがビジネスなら、稼ぐその前段階の、如何に稼ぐかという思考の段階こそ至上なのでは、と敷衍します。
 稼ごうとする意思が重要なのですが、その時、必要なのは果たしてファスト教養なのか。ただ金を稼ぐ足しになる程度の教養で、やっていけるのか。
 結局、底の浅さがバレて早晩相手にされなくなれのでは? ですが、そこが通り続ける場合もあるかもしれない。でも、馬脚がまろび出た場合、どうするのか。
 そこで痛い目を見る、負ける時、その馬脚を現した人はどうなってしまうのか。
 それでもチートする、といわれると、わりとどうしようもないですが、それでもちょっと考えたほうがいいのでは? とも思うのです。
 稼ぐのは格ゲーのように遊びじゃない、ともいわれそうですが、それは格ゲー舐め過ぎです。稼ぐ程度のことで、格ゲーの上取れると思うな。とか、放言したいです。
 まあ、結局は根底に流れる感覚は同じなので、格ゲーを今回のフィルターにしましたが、思いのほか話になりましたね。
 詰まるところ、ただ勝てるとか稼げるとかだけで飛びつくのはどうなのか、というのが、問題意識としてあるのですが、たぶん良い方向にはいかないな、という結論になるのではないか、という話でした。
 そもそもクラシックに対する教養とモダンに対する教養の話するの忘れてましたが、それについてはまた違う機会に。今回はファスト教養とチートの話がしたかったので、これでいいのだ。
 と開き直って今回はここまで。
 したらな!