オタ教養集中妄義 やっとこの5

説明ッ!!

 オタクにとっての教養とは何か、というのが迷走して、そもそも教養とは何かについて考えるという迂遠な戦略出たよしなしごとです。過度な期待はしないでください。あと、集中といいながら数か月開いたことに関しては突っ込まないでください。色々あったのです。角度とか。

教養についてなんとなく腑に落ちたのでこれを書く

 教養に関する、教養という言葉がある本をある程度カカッと当たるというのを繰り返して早幾年。だいぶ教養という物に対する目算が立ってきました。前から粗方の形は見えていましたが、ここ最近の知見でカカッと形が形作られました(重複表現)。
 というよりは、世間一般が教養という言葉を適当に使い過ぎている、という理解で、ではちゃんとした使い方とは? というので逆算して生み出されたのですが、基本的に知識が教養と言われやすい、けどそうじゃない。前は知識も教養という感じでは、でしたが、最近思うにちょっと違うかなと。
 知識と態度、って書いてましたが、もうちょい詰めると、何かに必要な知識で、そして何かに必要な態度で、という風に何かというのがあるのではないか、と思うようになったのです。
 それは何か。
 というと、選択する、であるかと思考が至りました。色々読んで、そうかなあ、と勘付いたというか。選択肢を得る為に必要な知識と、選択する為に必要な態度。選択する為に知識と態度がいる。という風に言い換えた方が簡単でしょうか。
 もうちょい詰めます。選択する為に必要な知識、というのは、そこに選択肢がある、ということに気づく為の知識、という理解でいいかと思います。そこに選択肢があることが分かる。その為の知識というのはマッポーのじゃねえ教養の一側面である、と言ってみます。
 そして態度。これは分かった選択肢に対してどういう選択をするのか。そこに対する態度ですね。正しい選択をすること、というと違う気がするので、正しいをつけないで、選択をする態度、という言い方がいいかと思います。『TWO
突風』的に言うと「でも俺間違ってる方行くわ……」という態度と言いましょうか。話の流れからしては正しい選択ではないけど、結果的には発言者がいい道に進めた、という事象なので、正しい道を選ぶことが教養ではなく、どういう結果でも選択をどうしたか、という選択に対する態度こそが教養のありようではないか、と立ち上げてみますハイパーン!(机打)
 つまるところ、選択肢を分かることと、選択をすることには乖離がありまして、更に正しい選択、というのが完全にバズワードな昨今ですので、そこを正しく選べる、のではなく、正しくなくてもきちんとするという態度こそが重要なんだよ! とキバヤシ断言したいと思います。

オタ趣味の選択肢ってなんだよ発言

 さて、オタ趣味における選択とは何か、ということですが、これについては平野耕太『進め!!聖学電脳研究部』最終回の、西新井護の選択がもっとも示唆的であると思います。もういきなりマイナーな漫画のネタをぶっぱしますが、それはさておき、西新井は寺門部長のこの三つからいいゲームを選べ、という選択肢に対して、今はこれです、と最終回だからってテンション高めにネタにしてた『ギレンの野望*1を選択肢として出してきます。
 これこそ、オタの教養なのでは? という風に思うのです。選択肢を出し、それに対してこれが面白いという態度を取る。先ほどまでつらつら書いていたことを包括している。この、自分の楽しいものを選び、面白いというこのムーブこそ、オタの教養なのですよ。
 しかし、これはちょっと付記が要ります。というのも、このオタ教養というべきスタンスは、楽しい、面白いという感情で行われるのです。ここがかなり重要だ、と思います。楽しく、面白いからこそ、オタ教養として立ち上がるのであって、そうでないなら、立ち上がらないのか? と。これはかなり難題なので、またしばらく考えてみたいと思います。
 という事で今回はここまで! あー、さっぱりした。

*1:付記すると、『進め‼聖学電脳研究部』はプレイステーション系の雑誌連載だったにもかかわらず、当時はセガサターンのみだった『ギレンの野望』をネタに、という段階で常軌を逸していたのです。