説明ッ!!
特にとりとめもないんだけど、思いついた<オタ教養>ネタを書かないと、脳内の思考領域がこれ一色で生きていくのが辛いので、折を見ましてまたやりますのが、この回です。壱もありますが、それはまあ適当に遡り傾向されるといいかと。検索もあるしね!
ということで、今回も自分の整理の為にここをメモ帳のように使うシリーズ、始まるよー。
自分でもつかめていないことをつらつらと書く厚顔無恥について
という話をすると思ったか? 甘ェ! 書くとしても「そうですね」の五文字で終わり!
とはいえ、実際にオタ教養についてはわりと概観がさっぱらぱーです。そこは何故か、というとまずオタ領域が蓄積を積みつつ変化、もっと言えば習合している点が一つ。もう一つはそもそもの<教養>がしっかりしたベタ基礎がない状態ではないか、という勝手な疑念がもう一つ。
前者は今のVtuber方面の隆盛を見れば、それが如何なる蓄積の上で舞っているかというので、オタ要素の絡まり具合がどうあるか、というのが分かるかと思います。ベタなとことか、先端のとことか、様々組み合わさっての今のVtuberであろう。そう思うのです。それゆえに、オタ教養が、どこがどう組み付くか見切りきれない。つまりは、どこの線だけを持っていただけでは意味がない、教養たり得ない、とすら言えるかと思います。この辺がオタ教養というのが定まらない一因と、勝手にしておきます。
後者は、つまり大上段の<教養>の成否は、話すと長くなるんで語りますが、結局、誰が教養とするのか、という部分がかなりあいまい☆もこじゃねえか、と前から思っているのです。これについては、残ってきたからこそ教養なのだ、というのは成程正じゃねえの、と見えると思いますが、しかし、昔の人の人口に膾炙したから残った、だけで全く認めていいのかと。今の世にも、素晴らしいといわれつつも全く残りそうなアトモスフィアのものがあったりするのだから、もしかするとその時代には傑作とされたけど、全く残ることが無かった物も、あるのではないか。ある名作のサイドにある、あるいはそれを越えることを求めて書いたものがあるのではないか。それを斟酌せずに生き残ったから強い、マスに響いたから凄い。そりゃ確かにそうだろう。でも、もっとあっさり消えたものにも、<教養>足り得たものはあったのかもしれない。そういう視座が足りないという気がするのです。とはいえ、消えたものを探ることは不可能なので、やはり教養は残ったものに対してされるものだ。というのは正ではあります。しかし、今現代でそれが消える前に見える環境にあるなら、それをオタ教養として取り上げるムーブはあるのではないか。
しかし、今この時、というのが教養たり得るのか、というのも考え所です。
それは一番どこにもないnowについて
今この時、と書いた瞬間に今この時は消失し過去になりますが、そういう話はここではおいて、教養というのは、過去の物にしか焦点が合わない、と思っています。
例えば絵画。これには教養というものがある、ということになっていますのでその呈で話をします。そこにはいろんな含蓄があります。含み、蓄積が。つまり、それを見る為に必要な補助線、それが如何に価値があるかと提示する補助線を知ることで、その価値を知る。という運動になっているのだと、思います。今の絵でも、それは使える補助線である、ということは、しかしできないのではないか。それが生まれた瞬間から、補助線の洗礼を受ける、すぐに過去になる。あるいは発掘した、とされる、その発掘したということを意味の補助線にしたものもある。今のその作品、というのはまた補助線の変質、価値観の偏執でいきなり価値をなくす場合もある。今その作品を買った、その価値観を手に入れた瞬間に、それが無かったことになるかもしれない。いわゆるバンクシーのそれは教養への圧倒的カウンターという側面があった、と勝手に思っています。今その価値を出したなら、次の瞬間価値観が変わってしまっても、その今を買ったんだろ? というか。
訳の分からん妄言はさておき。
オタ教養、ってこの今についての作法な気がするんですよ。今は昔より圧倒的に残りやすくなったとはいえ、放っておくと散逸してしまうのは今の方が昔より早いまであります。ネット社会は圧倒的に残るように見えますが、そんなことは全く無い、というのは古参なネットユーザーなら痛いほどわかっていただけると思います。お気に入りのサイトがもう全く欠片もない。あるいはもう入り方も忘れ手もいまだにある自分のホームページが。そういう中にあって、一つの穴に足を入れつつ、他にも目配りをする、というムーブ。これがオタ教養という時に求められる動きではないかと思うのです。前回の話で言うと態度にあたるところでしょうか。一つの穴では一つの穴のことすら分からない、というのがオタ教養のベタ基礎、とはなってないんですが、基本そこだと思う訳です。自分の穴を把握する為に、穴以外をどこまで整理出来るか。というか。
教養とは蓄積であることについて
唐突に項を変えていきなり無茶苦茶に言い切りますが、教養とは、蓄積です。あるいは、蓄積によって生まれたエトセトラ。ある教養物の付帯情報。穴に漬けた足で探る味わい。うんうん、それもまた教養だね! その蓄積をどう解釈するか、どう態度を取るか。それが教養の側面ではないか、と勝手に思ってしまいましたのでここに書いておきます。そうなるとどこまでが教養なのか、なんですが、それはまあ、うんうん、それもまたアイカツだね! ってことで。
誇れること
オタ教養というのは圧倒的に今寄り、今ではないけど寄ってはいる教養です。オタ物件として生まれた、というかされたものが、例えばアニメだとまだ1世紀程度の蓄積もない。補助線の引き方すら、まだ途上であるといえるでしょう。あるいはVtuberなんて5年経ってません。今あるだけで、それは素晴らしいことなんですが、しかし5年以下なんて教養サイドからすれば吹けば飛ぶような感じである、とも言えるでしょう。
その辺が、オタ物件がよく軽んじられ点です。とはいえ、教養サイドも、たいしたことがあるのか、というのは未知といえます。1世紀以上前からある絵の、それが一番いい発色だった時に見た人はいないし、それが実際に掲げられていた場所で見た人はいない。既に全員故人。と考えるとまだ昔のを追える点では、オタ教養は優れている、とも言えます。まあ、それがゆえにリアルタイムに見ていたやつサイッキョが出てくる訳ですが。
でも、リアルタイム視聴サイッキョってそんな価値があるか、ですよ。言動がくるってきましたが、追える点は優れている、というのは、リアルタイム以外で再びかー! することが可能な文化状勢である、ということで、いくらでも後追いで知識と経験をカカッと溜められる、ということですね。島本和彦『アオイホノオ』の、『銀河旋風ブライガー』のOPとEDを見る為に、その時間30分は正座待機、という経験は確かに今は出来ない。でも、出来て良かった? というね。最終的に知識が揃ってしまうのならば、相手の手の出せない情報、つまり経験に頼るしかない、ということでありますよ。完全に意味がないですヨネ。
うむ、だいぶ脳内ではまとまった。文章ははっちゃかまっちゃか。でもそういうシリーズなので、これでよし。
したらな!