オタクと教養とオタ教養についてぐるぐると、の七

初めに

 最初に言っておく。俺はかーなーりー強い! というくらいには意味不明な文字の連なりが、このシリーズとなります。一応オタ関係の話を目指していたはずが、最近オタ関係ない方向に進み過ぎてるので修正したいけど脳がたらだたとと垂れ流すのをただただ感じ入るばかりなのでどうしようもないでよ。今回はちょっとそっちに戻そうって気はあるのですが、どうなるかは全く分かりません。というかこんな長く書くと思ってないから脳の蓄積がいかにグログロしていたのかよくわかりましたよ。こまめなアウトプット重要。
 さておき、それではいってみましょう。

七「あえて<教養>に入る」

 前回に<教養>の言うのに乗るのもいいのではないか、という考えに至ったと書いたな」
「ああそうだ大佐……」
「I lied」
「うわーーー!」
 という冗談はさておき、実際にそういう考えに至った訳ですよ。その辺の過程の話をするが、これはまあ単純に読んだ本の影響です。荒俣宏せんせの『喰らう読書術』だ。この本は個人的にはびんびん来て感想も書いたのだが、その感想を参照されても教養の話と結びつかない辺りの感想なので、こっちには教養についての話で参照出来る部分を記述して行きたいと思います。さあ、どんどん<オタク>関係なくなってまいりました!
 さておき。
 『喰らう読書術』は教養についても示唆に富む内容がある。というよりぶっちゃけてる! それ言っちゃいますか! という内容が多いのです。その一部を引用しよう。

(前略)
 で、ここがいちばん、読者のみなさまには気にかかるところでしょうが、そんなに毎日読書をして、お前はいったいどんな偉い人間になったのだ、という疑問が残りますね。
 正直に、はっきり申します。聖人にも、悪人にも、また偉い物識りにも、なれません。(後略)
荒俣宏『喰らう読書術 一番おもしい本の読み方』P8)

(前略)
 そして何よりも、私たちが本で身につけた知識や教養など、多くの人にとっては何の関心もないことが多いのです。
(同上 P81)

 もうこの段階で、<教養>がどうのこうのとしているワタクシの無意味さがありありと浮かんできて切なさ乱れ打ちです。そうなんだよなあ、<教養>って、他人のは基本どうでもいいんだよなあ。こんなの書いておきながら、俺も相手の<教養>、わりとどうでもいいのである。好きに育ててろよである。まあ、だから<自分>のあり方を求める、というある種究極に希求するんでしょうけれど。
 話が私の心を折りに来る方向性になってきたので転換しますが、この『喰らう読書術』で、荒俣せんせはこう書いています。やや長くなるが引用する。

(前略)『日本語大博覧館』のおもしろさを一部だけ紹介したことで、「読んでみようかな」という種類の本になればいいわけですが、これをもしも私が、「読むべき本」だから読みなさい、といきなり義務のようにみなさんに押し付けたら、どうしますか?
 たぶん、勘弁してくれ、となるでしょう。でも教養主義の読書なら、押しつけることが可能になるのです。
(同上 P231)

 この部分は大変示唆に富んでいる。<教養>だ、とする、ある意味義務科目として押し付ける力によって読ませるという方向性がある、という事ですね。ここで重要なのは、<教養>だ、という言葉によって『「読むべき本」だから読みなさい』、をここでは超越している、少なくとも荒俣せんせはそう考えているという点だ。<教養>とする事で、義務を乗り越えられる、妙な上から目線ではない位置があるという示唆であります。これは<教養>というのが、一人の<教養>ではなく、多くの人が広く睥睨した後の<教養>として立ち上がっているから、とも取れます。
 さておき。ちなみに続きも引用しますと、

 大きなお世話でありながら、その一方で出来過ぎた親切ともいえるのです。そうであるなら、騙されたつもりで読んでみてもいいのではないでしょうか。もちろん、これを読んでいるみなさまに、そういう偉業を達成せよ、とおしつけたりはしませんので、ご心配なく。
(同上 P231)

 となります。この<大きなお世話でありながら、その一方で出来過ぎた親切>というのが、<教養>を手につける時に、重要な、忘れてはいけない観点である。<教養>として付きつける場合に発生する押しつけがましさを、大きなお世話だと理解している必要がある。そして付きつけられる側も、それを胡散臭さと共にある出来過ぎの親切を頭の片隅にでも覚えておかないといけないのです。書かれてあるように、騙されたつもりも、あるいは一つの手段であると言えます。しかし、この関係はかなり微妙であるというか、どちらにも捩じれた斜線を引かないといけない部分がある。全く知らない相手に使える手管ではないかもしれない。おお、これは一つ示唆かもしれない。
 というのはですね、<教養>というのを何の関係もない人に言われる、という状況でその<教養>を受け入れるか、という問題として立ち上がってくるからです。そこを考えると、ある作品を<教養>と言う人がその作品、あるいは言われる人、とどういう関係性を持つか、というのは案外重要な観点かもしれないと立ち上がってくる。一つ極端な例を上げると、ニコニコ動画の動画に流れるコメントで「何何は何何。これ教養」ともし書かれたとして、それを受け入れるか、というのが考えられます。作品に対して言えばそのコメは誰か全く分からない、匿名の向こうにあり、また関係性で言えば一つの意見だけど流れ去る一つのフレーバー以上の物ではない。これを、はたして受け入れるのか。というと、そんなよく分からないモノに促されるというのはほとんどない事ではないか、と勝手に推測する。他人の<教養>に、我々はそこまで気を払わないという以上のモノがある。そう言う意味においても、<教養>は人なり作品なりとの何かしらの関係性と密に繋がっている事が重要になってくるのではないか。うん、書いてて訳が分からなくなってきました。ネットだとリアル関係性の無い相手どころかネット関係性の無い相手にすら<教養>ぶっぱ出来るので、問題になり易いのはこの辺に原因、関係性が希薄なのにぶっこまれたら知るかよ、って部分があるのではないかと思うのですが。それはまあうっちゃりましょう。頭もフル活動で止まりかけてるので、また次回に。次回はちょっとオタク話に戻れる気がします。<教養>と<娯楽>の話になる、といいなあ。
 と言う事で〆ます。