あるいは作家と読者。あるいは符合しないぜ、夏。

http://d.hatena.ne.jp/kazenotori/20080104/1199511494
 上記を挙げておいてあまり関係の無い話だが、自分はけなしてしまうことが少々怖い。というのも、それでその作家の本が読めなくなったら、という事を考えてしまうからだ。自意識過剰にすぎる感があるが。
 で、そんなので駄目になるなら、その作家はいなくていい、という言い分もあるかもしれないが、そのせいでその作家の本が永遠に読めなくなってしまうというのは、かなりの恐怖ではないか。けなして、改善を促すのがいいのか、それともいけない状態でも続刊してくるほうがいいのか。駄目なままでも、書いていたら改善するかもしれないが、書かなくなったらほぼ永久に改善しないとも考えられるし、駄目なままを見たくないともいえる。どっちがいいという問題ではないのかもしれない。
 うにゅーとしていた時、
http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20080105#1199571315
 を見た。ここぞを一部引用。

 違う言い方をすれば、サイト管理人はサイトの読者に向かってだけ書けばよいのであって、
 一人か二人の作家や編集者のことを考えたって仕方がない、という事。(改行:私)

 そーなのかー、というのは冗談にしても、翻って自分のたまに書く感想を見やってみると、主に自分向けに書いているような気がしてきた。まあ大抵面白いと書いて、つまらないとはしないのは、自分に向けている部分が大きいからだろうか。なるほど、それならあんまりけなす方向について気にする必要ないかも。
 うにゅー。
 更に関係がなくなるけれど、こちらの読みが書き手の想定する読みにぴたりと符合することを、そうあれかしとされるけれど、それは良い事なのだろうか。そも、「ぴたりと符合する」事態が起きうるのか、という点がまず考えなくてはならない点だと思う。これは、ありうるのだろうか? あまりありえないようなことだと感じてしまう。近似値はあるんだろうけれど、完全に決まったーっ! となることはないような。でも、そうなった覚えもある。ある作品でつい「がきかっ!」と思った事はあった。でも、あれは先に「『がきかっ!』と思うんじゃないか」という作者さんの前情報があったから、ちょっと違うかもしれない。
 それはさておき。
 もし、書き手の思惑と読み手の感想が完全に符合する、というのは夢幻の如くだとすると、本に――あるいは創作について――なにか言うという事には、ずれが起きるものだと言う事が出来る。ということは、常に誤読の可能性が付きまとうという事になる。つまり「こうじゃないか」と思う読者と「こう思って欲しい」と思う作者の間には、いつも微妙な緊張状態がある事になるのではないか。となると、その辺を無視して「こう読んでもらいたい」というのは無理があるのかも知れない。
 じゃあ伝えたい事は、伝わらないのか? でも伝わってる気もするよなあ。どうなんだろう。
 とかなんとか。